2011年12月23日金曜日

「小栗」のエネルギー

1983年3月 下北沢・本多劇場
「ニッポン人の喜怒哀楽――語り物の世界」からの抜粋

中世末期に生まれ、民衆によって語り継がれて来た語り物説経の代表作ともいえる「をぐり」。その文体のエネルギーをなるべく失わぬように脚本化し仮面劇としたのが、「小栗判官・照手姫」である。
「をぐり」の物語がかかえる宇宙的ひろがりもさる事ながら、その文体が持っている民衆的エネルギーは、ひとたび音声となり空間にはなたれる時、音色は原色と金泥に輝くマンダラの世界となる。その世界をささえる演者の肉体は、よほどのエネルギーを燃やさないかぎり、文体の力にねじふせられてしまう。
アジアの楽器、手作り楽器による下座音楽のナマ演奏。
古い帯地を何十本と集めて作られた衣装。
胡粉と和紙で一人一人の演者の顔にあわせて作られた仮面、インドネシア・バリ島の仮面、藍染と金の幔幕、青竹の門柱の奥にしつらえた御神体。
それらもすべて文体を支える手だてであり、その為についやすエネルギーは、現代社会が、私達が、失いつつある、もろもろの退行現象から脱出する作業の一つなのだ。
私達はこの三年間、横浜石川町の運河に浮ぶ木造船を劇場、ケイコ場とし、ベルギーのバロック劇の劇作家、ゲルドロード作「エスコリアル」、アフリカ、ナイジェリアの作家エイモス・チュツオーラの死者を探してめぐり歩く物語り「やし酒飲み」、宮澤賢治原作「セロ弾きのゴーシュ」、そして「小栗」――以上四本の仮面劇を上演してきた。
なぜ仮面劇か。それは仮面の持つ力が、私達の作業をより強力にしてくれるからである。又、音楽をすべて生演奏としてきたのも同じ理由からであり、私達の木造船の劇場は、そのエネルギーを絶やさぬ為の道場であり、祭壇なのである。
横浜ボートシアターの今後の予定としては、新宿モーツアルト・サロンにおいて今年の四月第一月曜日から六月の最終月曜日まで三ヶ月間、「小栗」の公演をおこない、その後、年内は「セロ弾きのゴーシュ」などの小公演、仮面、語り、インドネシア舞踊などのワークショップ、来年度は「マハーバーラタ」の上演を予定している。
その下準備の為、スタッフ、出演者など十名は、この二月約一ヶ月間、インドネシアに研修旅行を行った。

今回の本多劇場の公演は横浜ボートシアターとしては初めての東京公演であり、プロセミアム劇場での公演である。船の空間を離れ、どのように作品が歩き出すか、私達にとって、その不安と期待は大きい。
この公演を実現して下さった。本多劇場、中村とうよう氏、TTCの横田氏の皆さんに、感謝の気持ちをのべるとともに、その期待に応えられるよう努力する次第である。


*現在、横浜ボートシアターは新山下に係留している鋼鉄製のふね劇場を拠点としています。
*これは1983年の記事です。

2011年12月2日金曜日

音と言葉の身体 その6

第六回 賢治の日本語

遠藤
現代作家のものでいえば私が、四つに組めるのは宮澤賢治。あの人の文体、文章がもっている力は連綿と続いてきた日本語の力、身体化できる言葉を持っています。近代文学の枠からはずれた力を持っていますよね。ですから彼が詩や童話、童話ともちょっと違うかな。

――ちょっとね。

遠藤
小説を書かず、ああいう世界を書いたということは、土着性というものとも違いますね。宗教性、とか自然観とか

――宇宙とか

遠藤
そうそう、そうしたものと四つに組んで、詩的な言葉、イメージを巧みに使いながら物語を書いた。賢治は呼吸化し身体化してゆくには一番手ごたえのある作家かもしれませんね。

――近代作家のなかでは

遠藤
ええ。

――いままで賢治の「セロ弾きのゴーシュ」「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」を遠藤演出の舞台で観ましたが、今度はなんなのでしょう。楽しみにしています。今日は長いことありがとうございました。


音と言葉の身体 終り

劇作家・演出家 遠藤啄郎
聞き手       山本 掌
雑誌『月球儀』記載記事より

2011年12月1日木曜日

音と言葉の身体 その5

第五回 インドネシアの舞踊や演劇

遠藤
インドネシアの舞踊や演劇の人達と作品づくりをしたのですが、やはり彼等も我々と似た思いを持っているのを感じました。

――インドネシアで古典は伝承されているんですか。もともとの形は。

遠藤
その時一緒に作品づくりをした人達の多くが子供の頃から、古典舞踊をやってきた方々だったせいもあるのですが、現代の視点で何を表現したらよいのか、悩んでいる感じが強くしました。僕なんかにとっては、インドネシアの古典は自国の古典より魅力的なんですけれどね。

――きっと西洋文化が当然のように入っていて、そこの視点からみるから、ディスカバー・アジアのようになるのかな。

遠藤
僕が自国の古典を学び、その中から方向性を見つけてゆこうとしていた時、アジアの伝統芸能に出会い目からウロコとでもいいますか、自由になれたんです。
自国の古典は自分にとって、どこか、窮屈なものになっていた。そんなこともあって、特に「小栗」には音楽、動き、衣装、仮面などにアジア、特にインドネシアのものを取り入れました。

――ちょっと言葉について話をもどしたいのですが。

遠藤
どうぞ。

――いま言葉を音声化する、身体化するということで話していただいていますが、現代ものとの一番の違い、何だとお考えでしょうか。

遠藤
何が違うか、難しいですね。
私は古典をアレンジして、たとえば「小栗」や「マハーバーラタ」のような作品と現代を描いたオリジナル作品両方を舞台化していますが、どちらかと言うと、演出、脚本とも古典ものより、むずかしい。

――それはなぜでしょうか。さすがに古典は何百年も生きてきて、その言語・言葉そのものにエネルギーがあるからでしょうか。

遠藤
そうですね。それをつかめば、伝わりやすい。観客は古典の教養が特に無くても、潜在意識を揺り動かしてあげれば、共感を得ることが出来ます。私は現代をテーマにしたものと、中世の物語や神話、民話などを題材にしたものと、両方を舞台化してきたのですが、私の場合は昔の物語を作品化したもののほうが、どうも受けがいいようです。

――受けるっていうのは、書いたご自身も手ごたえを感じると言うか。

遠藤
興行的なことです。

――興行的に(笑)。それはそれは。

第六回 賢治の日本語 に続く

劇作家・演出家 遠藤啄郎
聞き手       山本 掌
 雑誌『月球儀』記載記事より

2011年11月30日水曜日

音と言葉の身体 その4

第四回 古典劇、現代劇

遠藤
現代劇の俳優さんも、古典劇を学ぶべきです。どんなシステムで、どんな指導かはありますけど。そして様々な文体と四つに組むレッスンをしないとだめですね。

――そのテキストになるのはどういうものでしょうか。やはり中世の語り物、あるいは能になるのでしょうか。

遠藤
そうですが、様式の語り口が出来上がっているものは避けたほうがいいと思います。
テキストそのものから立ち上げてゆくほうが私はいいという考えです。
たとえば狂言にしろ能にしろ、それをきわめるには何十年もかかってしまいます。現代劇を作ってゆくなかで現代日本語をどう生き生きしたものにするか。その視点に立って古典をあつかうべきでしょう。言葉それは今つくられたものではありません。僕はよく俳優にいうんです。言葉は君よりエラいのだとね。

――困難な事を遠藤さんはやっていますよね。その演劇活動、海外により伝わっているようですが。そろそろ<遠藤メソッド>が出来る(笑)。何が違うんでしょう。

遠藤
日本の演劇界、特に現代劇がもっている価値観の問題ではないでしょうか。別に私は古典をやっているわけじゃありません。要するにわが国の近代演劇や現代劇が観念や心理主義に振り回され、自分達の歴史性、身体性を失ってしまったからでしょう。

――これまでの近代劇・現代劇の観念や心理あるいは文学に比重がかかっていた演劇から模索されて、<遠藤メソッド>の演劇に踏み出していますよね。古典の訓練をしていない俳優さんたちと芝居を作っている。私も何回も拝見した「小栗判官照手姫」、さきほども言いましたが、ほんとうに強烈な印象でした。六百年以上も前の説話が今の私たちにこんなにもいきいきと面白い。

遠藤
そうですね。ですから、私は日本語に身体性を取り戻す作業をやってきたつもりなのです。身振りにしてもアジア的な創作仮面をつくり、レッスンしたり、仮面劇を上演したりしてきました。それがけっこう大変で、新劇やアングラ演劇系の連中からさよならされてしまった感があります。

――ほんとうに開拓民ですね(笑)。古典の人達からの反応はどんなでしょうか。

遠藤
古典をしっかりなさってきた方は受け入れていただけます。たとえば文楽の太夫さん、言葉と本当に葛藤してきた方が「小栗」の舞台を見て、新鮮な面白さを感じていただけました。
ところが中途半端に古典かぶれした人たちは古典と比較して、見るのか批評的で評判が良くありません。

――そうなんですか。遠藤「小栗」は日本の言葉の文芸の大きな流れのなかに位置していると思います。これはある種ルネッサンスですよね。

第五回 インドネシアの舞踊や演劇 に続く

劇作家・演出家 遠藤啄郎
聞き手       山本 掌
雑誌『月球儀』記載記事より 

2011年11月29日火曜日

音と言葉の身体 その3

第三回 呼吸の詰め放し

――日本語のダイナミズムですか。日本語、言葉のバランスはどうなのでしょう。たいへんだろうなぁ。言葉を発する身体、あるいは呼吸について少し話してくださいますか。

遠藤
最近の人達は日常の会話の中でも、語尾まできっちり音にしない習慣がついていて、若い子なんかは語尾を飲んでしまったり、呼吸を放してしまう。ですから何が言いたいのか、はっきりした意志が他者に伝わらない。あいまいにしてしまう。しっかりした呼吸の切りかえができなくなる。
古文でも現代文でもそれは同じだと思います。つまり、言葉や文体にあわせての呼吸の変化にとぼしい。呼吸の詰め放しがわからなくなっている。
そこをしっかりやっていかないと、ただ感情を強く出したり、悲しそうに言うことができても、“言葉の表現”としては、とてもやせたものにしかならない。
近代・現代詩というのは声にするのがむずかしい。しかし朔太郎だとやはりちゃんとそこに呼吸が書かれているように思います。骨格があると言いますが、これはムードで詩を朗読するのとは違い、なんと言いましょうか……。
詩には行間を埋めてゆく、飛躍をしっかりとつかまえ音声化する、呼吸化してゆく。そのことによって、読んでいた時にはわからなかった世界が立ちあがり、語り手の個性をともないながら、生き生きとした世界が伝わってゆく――。
以前、フランスの舞台俳優さんで、マドレーヌ・ルノーさんの舞台を見ました。

――はい、見たことがあります。

遠藤
彼女がベケットの「勝負の終り」だったと思うのですが――間違っているかもしれませんが、彼女の一人芝居で下半身が土の中にうまっていて、おへそから上だけが見え、衣装はたしか、うすいシュミーズのようなのをきていただけでした。私はフランス語はぜんぜんわかりません。ですが、マドレーヌ・ルノー^さんのセリフがまるで次々に様々な花火があがるように飛び出し、薄い衣装のしたで下腹部が動くのが見えみごとだとおもいました。リアリズムでない不条理劇での言葉だからこそ、より身体的な表現が大切なのだと納得したのを覚えています。

――いいまのお話で思い出したんですが、マドレーヌ・ルノーさんのだんな様のジャン・ルイ・バローさんが日本にやって来て、銕仙会で観世三兄弟が元気でやっていた時にワークショップがありました。なかで一番印象深かったのが「Travail la mort」死への向かってゆく道程(死への仕事)、これを呼吸で表す。
能のかたちで、それからバローさんのやりかたで。それが<呼吸>だったんです。能でもフランスの演劇でも呼吸だけで、台詞がひとつもなくても死へ向かってゆく生々しい「生」のありようがはっきりと見えました。
どちらの演劇もある様式のなかで培われて、そこに通底しているものがあるのかと思いました。それが呼吸なのでしょうか。

遠藤
呼吸の詰め放しの展開の中にこそ基本があると思います。

――表現のもと、根源みたいな。
もう見えるんですね、呼吸が。それこそTシャツ姿だったので、筋肉の動きもはっきりとみえます。さきほどのルノーさんのお話のように。呼吸音まで伝わってきました。

遠藤
体の動き、身振りも一緒だと思いますよ。軸があって、中心があって、やはり呼吸が大切で、言葉と身振りをいかにおりあいをつけ、演劇の場合は表現を生みだすかですね。

――いままでのお話で、呼吸や身体、そのささえからの、「言葉のもつ力」、それをとても感じます。新劇に代表される演劇ではどうしても言葉の観念的な、文学的なことで出来ているように思えます。遠藤さんはどう考えているのでしょうか。


劇作家・演出家 遠藤啄郎
聞き手       山本 掌
雑誌『月球儀』記載記事より

第四回 古典劇、現代劇 に続く

2011年11月28日月曜日

音と言葉の身体 その2

古典を朗唱する

――遠藤さんは中世説話「小栗」から中世の言葉をそのまま活かして「小栗判官照手姫」を創られました。初めて観たときはカルチャーショックでした。芝居としてもですが、言葉の強さに圧倒されたのかな……中世の言葉、それを発語する俳優にとってはどうなんでしょうか。

遠藤
ええ、中世の物語 説教節「小栗」を舞台化して上演しました。
古典の劇、歌舞伎、能、狂言、文楽などでは中世の言葉や江戸時代の言葉をそのまま使っていまも上演されています。
しかし現代の俳優がやるときに歌舞伎や狂言の言い回し、調子をまねしたからといって、うまくゆくわけではありません。
私達が中世の語り物の文体を使ってやるときには、当然ですがまず台本の解釈から入り、それを現代の感覚、認識の中で再構成してゆく作業が必要なわけです。そして新しい語り口を作ってゆく。たいへんな作業ですがね。
現代の芝居の場合、ほとんど日常会話が主で、感情表現、心理表現が主ですから、たとえば説教節のような叙事詩的な文体は、なかなか現代の俳優さんは苦手なのです。ですから海外のもの、ギリシャ劇やシェイクスピアーを上演する時、狂言や歌舞伎の俳優さんのほうがうまくいったりする。
しかしなんとか中世の持っていた日本語のダイナミズムを取りもどせないかと考えます。
これはロシアの演劇大学に留学した人に聞いたのですが、留学生も自国の古典を朗唱する訓練がボイストレーニングのなかに入っているそうです。ですから日本人でしたら原文でたとえば「梁塵秘抄」とか「平家」を読むんだそうです。様式化されたものをまねして語るのではなく、自分で理解して語る。
日本の演劇学校では、やっていませんね。
言葉の身体性、歴史性を自覚してゆくには、どこの国や民族でも大切だと思うのですが。

――中世は今から六百年以上ですか。遠藤さんはそれを意図して、選んで戯曲にしていますね。それを実際にせりふとして音声化、身体化をする俳優さんにとってはどうなんでしょうか。

遠藤
まず戸惑じゃないでしょうか。だからたとえば「平家物語」を読んでみなさいといっても、古典劇をやってきた人ならば言葉の意味だけでなく、言葉の調子・リズムがすぐにとれますけれど、実はその調子が問題なんであって、それは何々調、たとえば歌舞伎調、狂言調になる。そうじゃなくて現代の自分達の身体を通して読みなおしてゆく作業の中で、リアリティが生まれ、役者個人個人のなかにも生まれる。そして新たな説得力が出てくる。そしてそれは現代文を使う場合にも、日本語のダイナミズムをとりもどすことが可能になるのではないでしょうか。

呼吸の詰め放し に続く

劇作家・演出家 遠藤啄郎
聞き手       山本 掌
雑誌『月球儀』記載記事より

2011年11月27日日曜日

音と言葉の身体 その1

劇作家・演出家 遠藤啄郎
聞き手       山本 掌
雑誌『月球儀』記載記事より 

第一回 日本語を発する

――最初にこれまで演出された舞台の経験から「音・声」と「言葉」について感じられたことをお話いただけますか。

遠藤啄郎(以下遠藤)
言葉って意味だけのものじゃありませんよね。音、声、表現の中でどのように日本語の音を発するか、呼吸をいかに使うかが基本なわけです。
海外公演では日本語でやり、字幕スーパーを出します。イヤホンで聞きながら見るというのがありますが、私はどうも好きじゃない。変に芝居がかってやられると、邪魔になります。しかし字幕スーパーも文字が多すぎると見切れないし、芝居の方もよく観ることができなくなる。ですからダイジェストします。セリフを全部訳すのではなく、ポイントだけを訳したり、時には少々邪道ですが、場面のポイントを解説して出したりします。そしてセリフの音や、言いまわしをよく聞いてもらえるよう心がけるんです。
  時たま、日本で上演するときより海外での公演が良くなる時がありますよ。

――それはどうして。

遠藤
日本語のわからないお客さんの前で日本語で演ずるわけですから、なんとか伝えたいと思う意志が強くはたらくからだと思います。それが俳優の気持ちに現れ、身ぶりも含めて、丁寧になり「いいな」と思うときがあるのです。
自国で上演するにも、それくらいやればと思うのですが、なかなかそうはゆかないようです。
最近の芝居を見ると、あまり日本語のことを重要に考えなくなっていて、見せることや笑わせることばかり表面に出て、言葉のダイナミズムを感じる舞台が少なくなっていますね。

――それは感情をこめたり、役作りどうするかとなってしまって、日本語をどう発するかという観点がないからでしょうか。

遠藤
身ぶりにしても、言葉にしても、それは脚本の文体によって違ってきます。かつては歌舞伎や浪花節、義太夫節、講談などの名調子を一般の人々が暗記し、口づさんだりしたものでしょう。今はほとんど聞かなくなりました。ヨーロッパなどでもたとえばシェイクスピアーのセリフ、名調子を、会話やスピーチの中で使ったりするわけです。
現代劇ではその名調子を失ってしまいましたね。
演説でもそうです。最近の例で言うとオバマさんの演説と麻生さんの演説を聞き比べても、その差はあきらかですよ。
テレビや映画の吹き替えはどうも好きではありません。なにか一番大切なものが失われるような気がします。特に外国の名優の吹き替えは残念に思います。
声優が日本語に置きかえることによって、演技の一番大切なものが失われてしまう気がします。

――あ、その「置きかえ」という言葉ですが、知らない言語であっても、言葉がわからなくても「伝える力」がある、ということでしょうか。

遠藤
ですから海外の芝居でも、良い芝居の場合は、一つ一つの意味がわからなくても、内容が伝わってくる。面白いものは笑えたりする。外国に行って観た芝居でも何度かそうした体験ばあります。
舞台での言葉というのは、最後は音やリズムにたどりつくと、僕は考えて芝居を作っています。それが言葉を身体化してゆくことです。

――言葉の身体化ですか。

第二回 古典を朗唱する に続く

2011年11月26日土曜日

『火山の王宮』~象を殺した者

『火山の王宮』~象を殺した者 当日パンフレットより

本日はお忙しい中をご来場いただき、まことにありがとうございます。

石川町の駅前で木造の艀を劇場に、横浜ボートシアターを始めて25年。
木造船の二度の沈没。そして現在の鉄製の艀。しかし現在、ふね劇場が係留している岸壁での公演はできない。せいぜい稽古場としての使用が限度で、名実ともに「ふね劇場」として活動できることが我々の悲願です。
ともかくも25年間、我々は様々なことに出会いながら、多くの人々の力に助けられてやってきました。これから先どこまで続けられるか分かりませんが、今までもそうであったように、まず一回一回の作品づくりに全力を尽くすこと。劇団や劇場、それは作品を作るための大切な仕掛けであり、それに尽きるのだと思います。

「火山の王宮」の原作、エリザベス・プラセトヨ著「白い菩提樹」はインドネシア語・フランス語・英語・日本語の四ヶ国語で書かれ、インドネシアを代表する画家の一人ヘリドノの装丁・挿絵による美しい本です。
私がこの本に最初に出会ったのは1998年。その年の10月に劇団が上演した「HOTEL 水の王宮」の準備のために出かけたジョグジャカルタの町で立ち寄った画廊「チムティ」でした。この年はインドネシアで政治暴動があり、それまでの大統領が替わった年でもありました。
「白い菩提樹」の本に出会ってから約10年。
多くの方の協力があり今回の上演が実現しました。なかでも長年に渡りバリやジャワの写真を撮り続けてこられた、古屋均さんの協力がなければ実現できなかったでしょう。心よりお礼申し上げます。

題名の「火山の王宮」は、やはりジョグジャカルタに実在する「水の王宮」をイメージして作った「HOTEL 水の王宮」にちなんでつけた題名です。

2006年5月、「火山の王宮」の台本を書きあげようとしていたやさき、中部ジャワ地震が起き、多くの人々が亡くなられました。
幸い現地の知り合いの方々は無事でしたが、かつて横浜・東京・ジョグジャカルタで上演をした「耳の王子」を、横浜ボートシアターと共同制作したインドネシア国立芸術大学の校舎が大きな被害を受けました。私は完成間近であった「火山の王宮」の台本の大きな書き直しを余儀なくされました。

被害にあわれた方々のご冥福を、心よりお祈りします。

2007年3月16~18日 両国シアターχ
2007年3月21~24日 横浜赤レンガ倉庫1号館ホール
劇団創立25周年記念『火山の王宮』 当日パンフレットより

2011年11月14日月曜日

再生作業としての演劇行為 その8

第8回 船劇場での実験――自らを再生する作業

いかに身体性を取り戻すかという理由で仮面を使い始め、古い物語を読み直し、今に再生させる――こうした作業を私は続けてきました。そして演劇は空間表現であり、稽古場、劇場が、その作品の内容と大きくかかわりを持ちます。その一つの実験として、私達は船の劇場で稽古し、公演を続けてきました。船という場所だからこそ、「小栗」のような作品が作れたのだと思います。近代劇場は確かに便利ですし、観客も見やすいとは思います。そういう意味では非常に合理的にできています。擬似空間、擬似の闇を作り出し、光をあてて明るくしたり暗くしたり、夜になったりするといったことでは非常に発達してきています。でも、場が持っている歴史性とか、一つの不思議さとか、力といったものは、もう近代劇場にはないのです。場としての力はありません。
木造船の中の劇場を胎内空間だと言った人がいます。そこは旅立ちなどいろいろなイメージを私達は持つことができ、日常から離れ、劇を体験するにはとても理想的な場所です。しかし現在は、行政から係留の許可がもらえず、劇場としては機能していませんが、稽古場として使っています。
そこで何をしたかったかというと、それはタイトルにもありますように「物語を再生する」こと。この物語を再生するということはどういうことなのか――これは自らが再生する作業であったと、私は思っています。自分たちがどのように演劇を通じて再生するのか。演劇をどこかに売るとか、演劇によってスターを作るとかといったことにはほとんど無縁の仕事なのですが、その中で見る観客、それから私たち自身が、物語の中で仮面を借りて再生をしていくという、一つの実験でもあるし、その過程でもあると考えて、自分なりに作品を作ってきました。
身体の再生の為の仮面、そして物語、船劇場――これが私が考え、実践してきた私達の演劇活動です。では本日の話はここで終わります。

  こちらにあります仮面を、ぜひ手にとって見、顔につけてみて下さい。
鏡も二つ用意してあります。
  ぜひ仮面をつけた自分を見て下さい。

(二〇〇五・四・一五 北方文化フォーラムより)
再生作業としての演劇行為(終)

2011年11月13日日曜日

再生作業としての演劇行為 その7

第7回 仮面劇『小栗判官照手姫』――死と再生の物語

この物語をもとにして作られたのが仮面劇『小栗判官照手姫』です。
『小栗』を作るにあたり、仮面だけでなく、衣装や音楽につていてもいろいろな工夫をしました。衣装では、日本の時代劇なのですが、和服を使うことを避けました。なぜかと言いますと、和服の場合、身体表現に限界があります。たとえば女性が和服では足を思いっきり上げられません。だからと言ってズボンやタイツ姿では様になりません。どこかに我が国の伝統性を感じさせ、豪華さや優雅さを出すために、時間をかけて集めておいたアンティックの丸帯や布などを使い、シルエットは東南アジア、たとえばジャワ風やバリ島風のスタイルを取り入れたりしました。
音楽も邦楽器などの使用を避け、アジア各地の打楽器や笛、弦楽器などと、創作楽器、竹製のマリンバやフライパンで作った楽器などを使い、どこか特定の民族や地域が出ないように心がけました。
ちなみにセリフ、言葉はできるだけ原文を生かすように台本を作りました。小栗の言葉は、もともと語るための文体として書かれたものですから、その力強い日本語の語感を失わないように心掛けたのです。だからと言って、歌舞伎調でもなく、能や狂言風に表現したわけでもありません。今の私達でも演じられるセリフづくりを行いました。このような作業を積み重ねて舞台化したため、その準備や稽古は、そうですね。はっきり覚えてはいませんが、五年ほどかかったかもしれません。
このお話はどこの民族にも残る死と再生の物語であり、男が一人前の人間として成人する、その支えとなった照手姫の物語としても読み取ることができます。また、熊野は日本民族にとって長い間聖地としてあがめられた場所であり、餓鬼はハンセン氏病、ライ者をイメージすることができます。
この芝居をイギリスで上演した時、或る評論家が「この物語は、戦の男神と愛の女神の物語であり、最後に愛の女神が勝利する」と説明していました。
私にとってこの物語は、仮面劇にするにはまたとない題材であり、再生としての演劇にはうってつけの題材でした。
この『小栗』を一番最近海外で公演したのは二〇〇三年、ルーマニア、そしてモルドバの国立劇場でした。その時にモルドバの『文化と芸術』という新聞に掲載された、女性の記者でジュリアナ・アルマッシュという方が書いたものを紹介させていただきます。

「今回のヴィジェーヌ・イヨネスコ演劇祭(世界的に有名な前衛演劇作家の名前をつけた演劇祭)の中で私が特に観たかったものは日本の劇団の舞台であった。なぜならば何か新しいものを見せてくれる、ヨーロッパの舞台とは違うものが観られるからである。私の考えは間違ってはいなかった。本年五月二八日、キシノウ(モルドヴァの首都)の国立劇場の舞台には、神話と現実、混沌と秩序、暴力と優しさ、死と生命、魂とその物質的反応が調和を壊すことなく、偉大な日本の神秘とともにハーモニーを維持して共存するという、オリジナルな舞台が展開された。
この『小栗判官照手姫』は、“横浜ボートシアター”によって演じられた。この劇団は横浜港に浮ぶボートで(当初は木製、その後鋼鉄製)活動を展開しており、その名がついている。台本のテーマは古い物語をベースにしているが、演出家遠藤啄郎の優れた才能によってさまざまな神話的要素を取り入れている。
卓越した技能は仮面(これも同じく遠藤啄郎の手になる)にも示されているが、これは日本の伝統演劇には欠かせないものである。この伝統演劇は、われわれヨーロッパ人にはモダンでしかないのだが。こうして『小栗』は三つの姿を現す。生・死・復活である。さらに、おそらく演出家としては、少人数の俳優でこれだけ大きな舞台を演ずることを可能にする節約の精神もあったのではないか。
舞台の上に映し出されたルーマニア語のテキストのおかげで、疑問に思う点の細部まで理解できた。物語は、各部分ともに登場人物の一人によって語られる形をとっている。物語はすばらしい語りの行為によって、あたかも存在するように私は感じることができた。おそらく他のすべての人もそう感じたであろう。これは、あたかも「まず初めに語りありき」という思想、あるいはモダンな表現ではデカルトの「私は語っているのだから、存在する(我、思う故に我有り)」という考えにいたる。この日本的範例は、(ポスト)モダン哲学の理論が完全に押しつぶされてしまうものであり、われわれに再び深遠なメッセージの解読を求めている。この意味でこの舞台の本質は、その主題にあるのではなく「いかに語られているか」、あるいは「いかに語られるか」にあると思われるのである。すなわち『小栗判官照手姫』の舞台では、完全にすべての要素が一つの言語に記号化されている(ほとんどテキストの必要がないほど)、照明、舞台装置、舞、音楽(日本の伝統芸術に適合させた特別な楽器)もそうであり、これは必ずしも解読を要求しない、理解されるものである。この言語は、日本の文字同様にただわれわれを魅了するばかりである。マジック・ショーのような雰囲気の中で、現実にわずかに傾斜しているような、あるいはその反対のような感覚がする。ここでは観客は、ヨーロッパの演出家によって劇化されたほとんどの舞台で起こるような、疑似体験は求められないように思う。あたかも現実の檻から解き放たれた心地よい快感が最後に残る、旅に連れ出されたようである。もちろんすぐにもとの場所に戻ることはわかっているものの(観客も製作者も同様に)、しかし、数時間でも昔の神話の世界に浸ることができたこと、そしてこの先別の世界もあり得るのだと知りつつ、囚われの身で居続けることに耐えることは、はるかに容易なものとなる。
日本の舞台は、矛盾の共存を完璧なまでに印象付ける。たとえば暴力は、武道によって表現されるのだが、われわれには優しさ、柔軟性に映る。また恐ろしい事態が展開するのだが、それは悲劇というよりも明るさをもっているのである。
『小栗判官照手姫』は、横浜ボートシアターによって一九八二年に初演されたが、演出家の遠藤啄郎は、その後も彫刻のように常により良いものを追及してきた。当然ながら、この努力は多くの賞によって報われてきた。また、エジンバラ、ニューヨーク、インドネシア、香港、シンガポールなどの国際演劇・芸術祭にも招待されている。「ボートシアター」は日本の伝統とギリシャ、インド、中国などのあらゆる神話の遺産を取り入れて舞台化した数少ない劇団の一つである。過去と歴史的想像の復興は、このすばらしい俳優たちの集団の成功をより大きなものとすることであろう。文化の再構築、まず何よりも古代の再発見を試みているヨーロッパでは、特にそうであろう。演出家の言葉によれば、演劇は人間との原始的なコミュニケーションの形態であるのだが、ヴィジェーヌ・イヨネスコ演劇祭で今後も日本の演劇と生で再び出会えるまで、少なくともこの形態を維持することを望んで止まない。」

もう一つ、やはりモルドバからメールで送られてきたファンレターを紹介します。

アブラモヴァラ氏よりのEメール 2003・5・29

「親愛なる友達
私は今、この手紙を遠いモルドバから書いています。しかし、昨日あなた方の劇団の俳優達のすばらしい演技を観てから、もはや遠い国ではなくなったような気がしています。あなた方の昨晩の公演に、心から「有難うございました」と申し上げたいと思います。それは私自身の内なる世界を覆すものでした。実際日本の文化は世界中で最も興味深く、ユニークな文化だと思っておりました。しかし(夕べの公演を観るまでは)日本人があのように素直で、美しく、尊厳を持っている人達だとは思っておりませんでした。
昨日の演劇は『小栗判官照手姫』というものでした。才能豊かな俳優達のすばらしい演技、音楽家や衣装デザイナーの素晴らしい仕事、そしてこの仮面劇の全体を創られたと伺っている遠藤啄郎氏の力量に感嘆いたしました。
この演劇に関っておられる全ての素晴らしい方々に感謝します。本当に見事な公演でした。この広い世界で私達を結びつけてくれたこの公演を、私は生涯忘れることはないでしょう。過去を尊重し、現在を賞賛し、そして未来に思いをはせ、そしてその全てをあらゆる人と分かち合いたいと思います。
あなた方が昨晩くださった素晴らしい時に心から感謝しています。チラシの裏にEメールアドレスを見つけて、黙っていることができませんでした。本当に素晴らしかった、有難う!」


第8回 船劇場での実験――自らを再生する作業 に続く

2011年11月12日土曜日

再生作業としての演劇行為 その6

第6回 仮面劇「小栗判官照手姫」――死と再生の物語 その1

どんな題材、脚本でも仮面劇になるとは限りません。ですから何を上演するか、その作品選びは難しいです。その中でこの二〇年間ほど再演を重ね、日本各地だけでなく海外、イギリス、アメリカ、東欧、香港、シンガポールなどでも上演した「小栗判官照手姫」についてお話します。
「小栗」の物語について、御存知の方もいらっしゃるかと思いますが、この物語は鎌倉時代末期に生まれ、それからずっと説教節として語り伝えられてきました。江戸時代に入ってから歌舞伎としても上演されました。しかしもともとは、平家物語などと同じように語りものとして生まれたのです。説教節といいますのは、お坊さんが信者に仏教説話などを語って聞かせたことから始まったもので、もともとが文字で読むのではなく、耳から聞く、語るために生まれた口承文学の一つです。
こうした芸能は我が国だけではなく世界各地にあり、特にアジアには「語り」の芸能がいろいろ残っています。最近、我が国では、文学作品を題材にした「朗読」や「語り」がたいへん盛んになり、たくさんのグループがあります。
ではここで、小栗の物語について簡単にそのストーリーをお話しましょう。
小栗は京都で大納言という位の高い家の一人息子として生まれ、たいへんに頭も良く、色男で、武芸にも秀でた若者に育ちます。しかし自由奔放な性格で、奥さんを七十二人も追い出し、京都のみぞろが池に住む大蛇の化身した美しい娘とねんごろになり、とうとう父親の怒りをかい、関東に追放されてしまう。しかし関東に来ても人気があり、多くの家臣が集まってきます、だがなかなか気に入った奥さんとは出会えないでいます。
すると旅の商人に、相模の国、今でいいますと八王子のあたりなのですが、その一帯を治めていた横山家に、照手姫という聡明で美しい娘がいると教えられ、照手の父親の許しももらわずに略奪結婚をしてしまう。横山一族はかんかんに怒って小栗を亡き者にしようと、騙して人喰い馬の鬼鹿毛に食べさせようとしますが、小栗は見事に乗りこなしてしまう。では次の手と考えた横山は、小栗とその家来達十人共々、毒の酒を騙して飲ませ、殺してしまいます。
しかし、勘当されたとはいえ、大納言の息子ですから、うっかりすれば天皇からおとがめもあるかもしれぬと、娘の照手姫も同罪とし、相模川に沈めてしまおうとするのですが、沈めることを命ぜられた家来が照手に同情して、殺さずに船に乗せ、流してしまいます。
照手は親切な漁師の親方に助けられるのですが、女房に人買いに売られてしまいます。そして照手は人買いの手から手に売られ、今でいう岐阜県大垣の近く、青墓になった大きな遊女屋で、遊女達に仕える下の水仕として働いています。
一方小栗は、家来共々死んで地獄に落ち、エンマ大王の前に連れ出されるのですが、家来達のたっての願いにより、再びこの世にもどされることになります。そして口もきけず、見ることも歩くこともできない、見るからに恐ろしい餓鬼の姿となり、墓を割ってこの世に戻ってきますが、エンマの手紙がその首にかけられ、「この者を熊野の湯の峰まで運び、その薬の湯につかれば元の小栗にもどれる」、と書いてあります。そのエンマの手紙を見た藤沢のお上人――時宗、一遍上人の起こした宗派で、現在も神奈川県の藤沢に遊行寺という時宗の大本山があり、そこには照手や小栗、鬼鹿毛の墓がありますが――そのお上人は餓鬼の姿となった小栗を土車――今でいいますと車イスでしょうか――そこに座らせ、「一引き引いたは千僧供養、二引き引いたは万僧供養」と唱えながら、熊野に向かって引き出します。小栗が殺されたのは神奈川ですから、熊野、和歌山までその長い道のりを、いろいろな人々の手によって引かれてゆきます。「一引き引いたは千僧供養」と言いますのは、土車を引いた人達の無くなった親、兄弟、子供、妻、友人などの霊のため、この土車を引けば千人の僧を集めて供養するよりも、もっと供養になるという意味です。
餓鬼の姿となった小栗を乗せた土車が、照手の働いている青墓の遊女屋の前で止まっているのを見つけた照手は、死んだ夫の小栗や十人の家来達の為にその車を引くことを決心し、主人に願い出て、五日間だけ引くことを許されます。照手は笹の葉に垂をつけ、顔に油煙の墨を塗り、まるで狂人のような姿となり、熊野に向けて引いてゆき、主人と約束したとおり、五日目に青墓まで帰るのですが、いよいよ別れの夜は、夫の小栗と知らずにグロテスクな姿の餓鬼に添い寝し、涙ながらに別れを惜しみます。この物語の中でも一番の聞き所、見所になっている場面です。
小栗の乗った土車は、道行く善男善女の手から手に引いてゆかれ、険しい山を越え、熊野の湯の峰の湯につかり、元の姿にもどります。その後、小栗は勘当された両親にも再会し、照手ともめでたく再会を果たし、末永く共に生きた。簡単に言いますとこうした物語です。


第7回 仮面劇「小栗判官照手姫」――死と再生の物語 その2 に続く

2011年11月11日金曜日

再生作業としての演劇行為 その5

様々な仮面 その2

仮面、それはどんな仮面でも、どんな動きをしなければならないというような約束はありません。レッスンの場合、まず仮面をつけて鏡の前に立ち、体全体となじませ、それぞれの仮面の持つキャラクターを自分なりに感じて動くようにします。その場合、その演じ手のイメージで動くのです。ただ顔の表情は見えないのですから、全身でその感情表現を表さなければなりません。またその表現が演じる者の内面とつながっていないと、より嘘っぽく見えてしまいます。
また仮面の持つ形、その特徴をつかみ、動きの中に生かしてゆく必要もあります。それに老人の面だからと、老人をパターン化して動いても面白くありませんし、動物の面だからと言って、ただ動物、たとえば猫の面だから猫の真似をしても面白くないのです。人は猫になれません。その仮面にあった新たな猫をつくりださなければなりません。

これはインドで生まれたマハーバーラタの物語を仮面劇として上演した時、私が作った仮面です。
マハーバーラタとは紀元前四〇〇年頃生まれ、四世紀頃完成した、世界で一番長く、一番古い物語といわれ、我が国にも影響を与え、アジア各地に伝わり、今も多くの人々に親しまれているものです。能や歌舞伎の中にもその物語の一部が作品化され、現在も上演されています。

私が舞台化したのは、インドからインドネシア、ジャワ島に伝わり、ジャワの王権神話や、のちにイスラム教の教えなども加わり、今も影絵芝居として上演されているものからです。マハーバーラタはインドネシア読みです。その影絵芝居のダラン、語り手によって語られる物語をもとに、脚本化して上演しました。
その物語の中で、影絵芝居に必ずと言っていいほど登場してくるペトルとガレンと呼ばれる道化の為に作った仮面です。黄色の方は、日本に古くからある腫面からヒントを得て作りました。
こうして見てくると、それぞれの民族や芸能の特色を、仮面が持っていることがよくわかります。その中でも仮面の眼の作り方にそれぞれの芸能の特色が現れています。どこが違うかと申しますと、眼の穴の開け方に特色があります。
能面はほとんど黒眼の所だけに穴が開いていて、演者はたいへん見にくいものです。それに能面はヒノキを彫って作るので、木の厚さの分だけ見にくくなっていて、それは能の表現様式に関係があります。まず能の舞台はその広さが決まっていますし、高低がなく、舞台の装置といってもシンプルなものです。動きも、たとえばとんぼを切るようなこともありませんし、重心を下にした動きですから、このようにあまり見えなくても安全なのです。能の演者は自分の進む方向はあまりよく見えません。ではなぜ、このような不便な仮面を使うのかと言いますと、能の表現は、内側のテンションを非常に高くし、表面は静かにという特色を持っているからです。
それにひきかえ、コメディア・デラルテの仮面は、この仮面を見てもわかるように目の穴が大きい、仮面によってはもっと大きく開けたものがあります。やはりこれもコメディア・デラルテの表現スタイルによります。とても激しい動きをするのです。ですから能面のようなものをつけて演じたら怪我をしてしまいます。
この能面とコメディア・デラルテの仮面の中間にあるのが、バリ島やジャワ島の仮面の眼の開け方です。眼球の下側にそって横に長く穴があけられています。ですから能面より良く見え、動きも自由です。バリの仮面をつけての動きを見ていますと、階段を上ったり下がったり、野外での上演が多く、とんぼまでは切りませんが体を廻転させる動きも多いようです。
このように、仮面はそれぞれの芸能の持つ表現スタイルによって、作り方が違っています。
以上申し上げてきたように、仮面はそれぞれの民族や表現様式の違いが反映されて作られていますので、どんなものにも使えるというわけではありません。ですから、表現したい方向性に見合った物を作る必要があり、だんだんに新しい仮面を創作する方向になり、自分で仮面を作るようになってゆきました。
最初の方で、現代の仮面劇を上演する劇団やグループがほとんどないと申し上げましたが、その一つの理由に、創作仮面の作り手がほとんどいないのです。舞台美術のデザイナーや造形作家、人形劇の人形作家などが作る場合がありますが、手間が大変な割りに、顔につけ、表情豊かに見え、キャラクターを持ったものを作るのはなかなか難しく、また需要もそれほどありませんから、創作仮面を作る人はあまりいないのです。もしもっと仮面を作る人がいたら、仮面劇や仮面舞踊をやる人は増えるのではないでしょうか。

再生作業としての演劇行為 その6 に続く。

2011年8月21日日曜日

再生作業としての演劇行為 その4

第四回~様々な仮面

 ここには私のオリジナルの仮面もありますが、これはコメディア・デラルテで使用される仮面です。作者はイタリアの仮面作家の第一人者、サルトーリさんの手になるものです。
 イタリアは皮の加工技術がとても優れていて、イタリア製の靴やかばんなどは皆さんもよく御存じでしょう。コメディア・デラルテはギリシャ劇の流れをくむものですが、ギリシャ劇で使われていた仮面は恐らく皮製ではなく。ギリシャの時代に使用された仮面は残っていません。絵とか彫刻などに残っているようですが、現物は無いので、何で作っていたかよくわからないようです。
 このコメディア・デラルテの仮面は、一度イタリアでも途絶えていたものを、新たにストレールによって、こうした技法で作り出されたものです。
 皆さんもよく御存じのピエロ、これもコメディア・デラルテの道化役がフランスに行き、今のような形になったと言われております。鼻の頭にあの赤いピンポン玉のようなものをつけます。おそらくこれは世界で一番小さい仮面かもしれません。
 さて次ぎは日本の能面ですが、今日私が持って来たのは、おそらく日本にただ一つしかない能面の半面です。これは北沢三次郎さんとおっしゃる能面打ちの方が、私の仮面劇を見て、試作として作って、私に下さったものです。
 日本には古くから仮面劇はありますが、半面、つまり鼻の下が無く、演者の口が見えているものは見かけません。ではなぜ半面が作られたのか、それは言葉を、セリフをたくさん言うためです。半面は、さっきのコメディア・デラルテ、それからインドネシアのバリ島の物に多く見られます。
 レッスンの中で、こうしたコメディア・デラルテの仮面や能面を使うことはできますが、どこかギコチない。なんとなくイタリア人のような動きになり、両手を広げて「Oh!」なんてなったり、能面だと、構えて、スリ足まではしないまでも、何となく習ったこともない能風になったりしてしまう。
 身体表現というものは、その民族の持つ身振りや約束事が出てきます。身体表現はそうしたものから逃れられないようです。
 私がかつで、フランスの演出家ピーター・ブルックの所で俳優をやっているヨシ・笈田君達と一緒にカナダ、アメリカ、オランダ、フランスなどで、現地の人達とのワークショップと公演をして廻ったことがあったのですが、その民族や国によって、ただ立つということが、こんなに違うのかと改めて思ったことがありました。日本人の場合は「ただ立って下さい」と言うと、体全体を正面に向け、足を少し開き、両手をやや構えたように下げます。ヨーロッパ系の人達、たとえばフランス人の俳優さんは、やや斜めに構え、足を少し前後に開いて立ちます。アメリカの人だと、体全体から力を抜き、少し肩を落としぎみに立ちます。身体というものは、やはりこうしたものが埋め込まれていて、それぞれの文化を表すものだと気付きました。

第五回~様々な仮面 その2 へ続く

2011年8月7日日曜日

再生作業としての演劇行為 その3

第三回~仮面を私はなぜ使い始めたか――身体性の回復――

 普通の俳優さんは仮面をつけることをあまり好みません。それに仮面をつけてしまっては、俳優さんとして顔が売れませんからね。まあ、それは冗談として、戦後しばらくして私が演劇にたずさわるようになったのは、アングラ演劇と呼ばれるものが盛んになった頃です。一九六〇年から七〇年、その頃若い俳優達、その多くは大学生や大学出たての、何も訓練など受けたことのない若者達でした。言葉だけでなく、からだを使って表現することもそれなりに訓練が必要ですが、そう簡単ではありません。その頃の演劇は表現技術の訓練より、運動としての演劇、新劇へのアンチテーゼとしての演劇という考えが強かった。たとえば「黒テント」――今でも活動を続けている、アングラ劇を代表する劇団ですが――その劇団の入団のためのオーディションでは、「君のセクトは?」「はい、僕は革マルです」などという言葉が行き交った時代です。そうした若者達にどうやって身体表現能力を持たせることが出来るか、その中で考えついたのが仮面でした。そしてその基礎となったのが、パリーにあったルコック演劇研究所における、ルコック・システムで行われていた仮面のレッスンでした。そこで使われていたコメディア・デラルテの道化、仮面を使った道化の表現のためのメソッドでした。幸い、ルコックの研究所に留学して帰国した人もいて、その人達と一緒に仮面のレッスンをするようになりました。これが最初に、私が仮面を使い始めたきっかけとなったのです。
 たとえば中性面という、キャラクターのないものとして作られた仮面をつけ、焔となる――体内に火種が生まれ、少しずつ体全体に焔がひろがり、あたりまで焼きつくし、燃え尽きるまでを表現するのですが、人によってはトランスしてしまうところまで行ってしまう。まあそれだけ仮面をつけることにより、解放される訳です。しかしトランスしてしまっては表現にならなくなってしまうので、その一歩手前で止まり、全身を使って焔を表します。こうした中で、それまでに自分を縛っていたもの、習慣や拘束されてきたものから解放されるレッスンをしたわけです。
 レッスンと言いますと、何か決まったやり方を訓練して覚えてゆくことかと考えがちですが、このレッスンは、それまでその人に染みついてしまっている教育や既成概念を取り払うこと、そして身体表現の幅や、新鮮さを発見することに、仮面は役立ったのです。しかしこれだけでは仮面を使って具体的な作品を表現するには至りません。一度解放したところから、表現することへの道を探ってゆくのです。この表現を具体化してゆく中で、私達の歴史性や自然観を見つけ、私達なりの現代仮面劇を発見してゆくのです。
 そこで、仮面の造形性、物語の選択などが重要になり、その結果、自分でも仮面を作ったり、アジアの仮面劇の勉強も必要になってゆきました。


第四回~様々な仮面  に続く

2011年8月5日金曜日

再生作業としての演劇行為 その2

第二回~仮面とは

 では仮面とはなんなのでしょう。
 仮面は人類が文明を持ったときからあったと言われ、非常に古くから使われてきました。
 では、どのような理由で人は仮面を作り、付け、何を表現しようとしたのでしょうか。
 古くは宗教的な儀式や祭りに使われたのが始めだと思いますが、たとえばアフリカなどでは裁判にも使われたようです。ひとつは共同体の中で「誰かが鶏を盗んだ」とすると、その罪を問わなければならない。こういうことが起きてきたときに、長老が仮面をつけて、村の人たちは輪になって踊りはじめる。するとあるところで長老が神がかりして――神様が自分にのりうつって――ばったりと倒れるわけです。すると仮面についている角の先が触れるわけですが、その触れた人が犯人だということになる。これはぜんぜん偶然ではなくて、長老は村のことをよく知っています。それではなぜそのようなことをしたのかというと、この裁判の結果は神が決めたものだ、神が見ていたものだという考え方をとっていたからだと思います。
 それから日本にも古い行事の中で「なまはげ」というものがあります。東北の方はよくご存知かと思います。これはお正月ですか、近所のおじさんが仮面をつけて出てきて「勉強しろ!」「親の言うことを聞け!」と言うわけですね。すると子供はわんわん泣いて言うことを聞く。おじさんがそのまま出てきたのでは言うことを聞かないけれども、仮面をつけると子供はそれに恐怖をおぼえて言うことを聞く。つけている方もその気になる。そういう両面があるわけです。ものに変身する、扮するという一番端的な手法としては、仮面というものが便利なわけです。仮面をつけると、一種の神がかり状態に近付いていくということがあるわけですね。
 また演劇的なものとしては、たとえばギリシャ劇などでは神々を描く。ギリシャには野外劇場があって、王様から一般市民までがそこに集まって、ギリシャ神話の世界、ギリシャ神話の中の物語を、仮面をつけてコロスが中心になって――コロスというのはコーラスですね――、人数が決められていて仮面を換えながらされていたようです。そういうのが、演劇の芸術として形になったものとしては最初だったわけです。
 そのほかにも、世界にはいろいろな発祥があります。
 日本にも能というものが生まれる前には、神楽だとか田楽といったものがある。神楽も鬼の面をつけ、ヤマトタケルの神様が仮面をつけて出てくる。そういったものが今でも行われているわけです。昔の共同体では人々のいとなみの中で仮面というものは使われていた。こうしてみますと、仮面を使った演劇的表現の方が古く、今私達が演劇と呼んでいるもの、心理劇などは新しいものであり、演劇のルーツは仮面劇だと言えます。
 しかし近代社会においては、舞台に神々や魔もの、動物や植物などが登場する、祝祭性の強い演劇はあまり重視されなくなり、人間中心の演劇が主流となり、仮面を使用するものは少なくなってきました。たとえば、ホームドラマ「渡る世間は鬼ばかり」を仮面をつけてやるわけにはゆきません。それはチェーホフ作品についてもしかりです。
 しかし一方では、我が国で能、狂言や神楽が今でも上演されていますように、主にアジア各地、インドやインドネシア、中国、韓国などでも、仮面劇や仮面舞踊は、昔ほど盛んだとは言えませんが、上演されています。
 では仮面を使うことでどんな面白さや利点があるのでしょうか。まず顔につけただけで、一瞬にして神や魔物、動物になれる。それは観客だけではなく、演じる人間もその気になれるのです。顔を隠す行為は、たとえばサングラスをかけたり化粧をすることで、私達は気分が変り、大胆になったりします。
 そのように仮面は変身のためのより便利な小道具であり、日常的ではないもの、見たこともないような世界を表現することに非常に適している。ある人物なり、神や精霊との一体感を、演ずる側も、見る側も体験できるわけです。そして、そには見えないものを見ることができ、優れた仮面と優れた演者によって、神話や童話がリアリティーを持って観る人に迫ってくるのです。俳優の個人が消え、物語世界を出現させることが可能になるのです。
 しかし近代劇において、仮面を使用することはほとんど無くなってしまいました。さっきも申し上げたようにチェーホフでは仮面が必要ではなくなったのです。近代劇は仮面を排除する方向に行ったわけです。それは人間中心のドラマが主流となり、俳優の表現する方向も大きく変ったのです。
 しかし戦後になり、ヨーロッパを中心とした演劇の中で再び仮面を見直す動きが生まれてきました。そして俳優レッスンの中でも仮面が使われるようになりました。
 では、なぜ仮面をつけての表現を見直すようになったのでしょうか。
 それはやはり「近代」社会、近代における人間観や自然を見直そうとする意識の中から生まれてきたのだと思います。科学の発達、物質文明、一種の合理主義――そういうものの中で、人間が本来持っていた、たとえば呪術性であったり、神秘性であったり、それから身体性をもう一度取り戻す、からだに埋め込まれた潜在性とか連続性といったものが、演劇などでも問われるようになってきたわけです。
 最近ある建築家のこんな言葉を読みました。バウハウス――これは一九一九年、建築家のグロビウスが中心となってドイツに生まれた芸術学校で、機械技術と芸術の総合を理想とし、その教授の中にはポール・クレーやカンディンスキーなどがいて、近代芸術の展開に大きな影響を与えたのですが――そのバウハウスの運動の中で欠けていたものは、自然と歴史であったと言っております。演劇において自然や歴史、物語性を取り戻す、そのために身体性を見直す、そんな気運が強くなり、我が国の能やインドの古典芸能、インドネシアの仮面劇、イタリアにあったコメディア・デラルテ(ギリシャ劇から生まれた仮面喜劇)などが見直されるようになったのです。


第三回~仮面を私はなぜ使い始めたか――身体性の回復――
に続く

2011年7月22日金曜日

再生作業としての演劇行為 その1

~仮面・人形・からだ~ 北方文化フォーラムより2005年4月15日

 札幌大学の前学長、山口昌男先生にはいろいろとお世話になりました。私の作ってきた芝居に大変興味を持たれて、私達の船劇場公演にも足を運んでいただき、紹介記事や評を書いていただいたり、シンポジウムなどにも出席していただきました。
 今回、私は初めてこの大学に来たのですが、とても美しく、設備も整っているのを見て、たいへんうらやましく思いました。それは、私が通っていた大学(芸大)が古く、汚かったせいかもしれません。学校へ住み着いている人なんかもいたりして、昼間から寝巻きでウロウロしているような学校でしたから、大学は汚いところだという先入観念があったからかもしれません。こんな場所で毎日勉強できる皆さんをうらやましく思います。ぜひしっかり勉強をして下さい。(笑)

 さて、私がやっている舞台の仕事は、映像作品や本などと違って、ともかく劇場に足を運んでいただかないと、そのイメージやメッセージは伝わりません。でもそれだからこそ、舞台表現の持つ力や魅力はテレビや映画がこれだけ発展してもまだ十分に意味があり、重要だと考えています。ともかく舞台を観ていない方に、その面白さを伝えることの難しさはありますが、今日はなんとか皆さんに理解していただけるように努力してみます。

 私がかかわり、作っている芝居は、おそらく普段皆さんが観ているものと違っているのではないでしょうか。それは仮面を使った芝居だからです。たとえば古典の能や狂言では仮面を使います、しかし現代劇で、仮面を使った舞台を上演しているところはほとんどありません。

第二回 *仮面とは に続く。

2011年5月31日火曜日

場の持つ力 その4―場の力によって私が果たせたこと

 私は四角なプンドボの各辺の中央から、広場に向かって、三米幅の花道を造ってもらった。それは芝居に登場する、人間やオートバイ、自転車、べチャ(人力で運転し客を乗せて走る三輪の乗り物)などの出入りにそこを使いたかったからである。
 実は自動車や馬車まで登場させたかったのだが、床がもたないと許可にならなかった。
 あたり前ですよね。
 その花道のおかげで、プンドボの中央が場面によって街の四つ辻のようになった。
 舞台装置は他に一切なしである。
 私は注射のせいで熱は下がっていたが、まだ足が地につかず、ふらふらしながら、客席に座り、初日の舞台を見守った。
 厚く重い熱帯の夜の闇から。
 花道を通り現れては再び闇に去ってゆく、仮面の神々や王子、王女、この地で戦死したボロボロの兵隊服をまとった残留日本兵の亡霊達。それにまじって登場するオートバイの若者や、風船売り、べチャに乗った日本人観光客達は、今街からやって来て、再び街に帰ってゆくようだ。
 中央から放射状にひらいた、木組の美しく高い天井には、石の床に反響した、セリフの声や、ガムランの音色が昇ってゆき、まじり合い、観客の体に心地よく降りそそぐ。
 時たま吹いてくる涼風に乗り聞こえて来る、犬の遠吠えや、コーランを唱える声など、それは何とも効果的で、演出家としてはしめしめである。
 いよいよ戦争の場面だ。
 広場の何ヶ所にも置いたかがりびがいっせいに燃えあがり、所々に生いしげる木々や、広場を囲んで建つ民家のくずれた白壁までも赤く染め、煙がたちこめ、油と木の燃える匂いが鼻を突く。
 いったいここはどこなのだろう。
 嬉しい事に自分はもう演出家ではなく、ただの参加者の一人になっていた。
 今ここでは時代や物語り、現実の境界が消え、光も音も、匂いや風、闇や死者さえそれぞれの存在をよりたしかなものとし、おたがいに生き生きと呼吸し合い、泣き笑い、叫び、唄い踊り、祈る。ここに有るすべてが哀しいほどのあたたかさに包まれ輝いている。
 これは自分の熱のせいだろうか?もしそうだとしても、私が私自身にあたえた責任の一つを果たせた、そんな満足感で幸福であった。
 場(トポス)の持つ力によって、これほどまでに作品世界が生まれ変わり、見えないのではとあきらめていた世界が見えてきたのだ。
 横浜・東京の劇場公演の不満のナゾが解けた気がした。
 私は自分達の船劇場の事を思った。
 今から二十年前、私達は横浜の運河に浮ぶ古い木造のハシケを買い取り、そこで公演活動を続けてきた。船は我々に「場」の力をあたえ、創造力を強く刺激してくれる。だが五年前その船は老朽化の為沈んでしまった。
 そうだぜひもう一度船劇場を浮ばせねば、私はその願いを強くしていた。
 三日間の上演中、一度の雨に邪魔されることなく、「耳の王子」の公演は無事終わった。
 私はインドネシア側の面々に、「実はあの雨止めの祈祷を僕は信じていませんでした。ごめんなさい。」と謝った。
 するとベン・スハルト氏が「何も謝ることはありませんよ。我々だって信じていたわけじゃありませんからね」といたずら坊主のような顔をして笑った。そしてみんなも私も笑った。
 一年後、そのベン氏が癌の為、五十三才で急逝された。
 私はジョクジャカルタに行き、あの雨を止めたユドヨノ先生の案内でベンさんのお墓参りをした。途中で雨が降り出してきた。ぬれた墓の上に彼が上演ごとに毎回舞台裏で、神話の中の登場人物カルノとアルジュノの影絵人形にむかってしていたと同じように、赤と白の花びらを撒き、聖水と線香をささげご冥福を祈った。私達はもう二度とベンさんが祈りをこめて華麗に踊るあの姿をこの目で見る事はできないのだ。
 ユドヨノ先生が一緒でもその日の雨はふりやまなかった。(終)


(注)この文章は十勝毎日新聞に掲載された記事です

2011年5月30日月曜日

場の持つ力 その3―そこは祭の場となった

 ジャワ島に渡り二週間、時間におかまいなく連日襲ってくる豪雨と暑さ、四方吹き抜けのプンドボで昼夜おこなわれる稽古で、私もとうとう発熱、注射を打ちながら初日を迎えることになってしまった。
 もし上演開始直前や、本番中に強い雨が来たら吹き込む雨水や雨もり、雨音で公演中止は間違いない。たった三回だけの公演だ、中止はつらい。
 インドネシア側の連中に「雨になったらどうしますか?」と聞いても、「本番中、雨は降りません、雨は止めますから。」とニヤニヤしながらわけのわからない事を言っている。
このプロジェクトの準備に私たちは二年間をかけて来た。言葉の壁だけではない、考え方や方法論、システムの違い、稽古時間も通常の倍以上かかる。テーマだってお互いにこだわりの持てるものを選びたい。宗教や食べ物の違い、(最近起きた味の素事件でもわかるように。)貨幣価値の大きすぎる違いも、気を付けないと差別につながりかねないだろう。
 初日、幸い雨はまだやって来ない。
 客の出足も好調だ。
 プンドボの廻りには、まだ明るいうちから入場券を持たない近所の大人や子供達が集まって来て鈴なりになり、何が始まるかと柵越しにのぞき込みぺちゃぺちゃと喋っている。広場には屋台のそば屋までお出ましで、ここはあっという間に祭の場になっていた。
 会場の裏手では、インドネシア側の一番年長のユドヨノ先生がまっ赤な唐辛子で飾りつけた供物を地面に立て、素焼きの入れ物に椰子の殻で作った炭火をおこし、なんと雨止めの祈祷を始めたではないか。
 自分が出演中も火を絶やさぬよう、美人の奥さんまで動員している。
 開始十五分前。
 日本公演の間も、楽屋の一角で毎回行われていたのだが、ここではスタッフ、出演者全員が会場の一番奥にある別棟の、かつて王や王女の控え室だった扉の前に集合し、影絵芝居(ワヤン・クリ)マハーバーラタの物語りに登場する悲運の王子カルノと戦場で兄を殺さねばならなくなったその弟アルジュノ、二つの金色鮮やかな人形をならべ、線香、聖水、花を捧げ、今日の公演の無事を祈る。
 その後インドネシア側のチーフであり出演者で共同企画者のベン・スハルト氏、彼は芸大のパフォーマンス科の学部長であり、著名な舞踊家だ。彼の神への感謝を込めた真摯で華麗な即興ダンスがしばらくあり、皆でお互いに一礼し、各自スタンバイの位置につく。いよいよ開始である。
 開演のドラが鳴り、すべての明りが消えると、まだかすかに光が残る夕空に、プンドボの屋根がそのやさしい形を浮かび上がらせた。
 再び明りが入る。
 客席は満員になっていた。


(注)この文章は十勝毎日新聞に掲載された記事を載せています。

2011年5月29日日曜日

場の持つ力 その2―ジャワの劇場プンドボ

 二十年来の友人でバリ島を代表する舞踊家の彼が、私にこんな事を言った。
 彼はアメリカやヨーロッパ、我が国でも多くの公演を体験している。「外国の劇場で踊るのはあまり好きじゃない、そこには月も星もなく、風も吹かないからだ。」
 彼等の踊りや音楽(ガムラン)は本来、寺院の広場やワンテランと呼ばれる、屋根だけの吹き抜けの建物の中で上演される。そのワンテランは私にとっても忘れ難い場所だ。それは四年ほど前、同じインドネシアのジャワ島の真ん中にある古都ジョクジャカルタの「プンドボ」(バリのワンテランと同じスタイルの建物のジャワ名)で、「場」の持つ力を強く感じる貴重な体験を持った事があるからだ。バリのワンテランとジャワのプンドボは多少の違いはあるが、基本の構造は同じである。
 その公演は我が国の国際交流基金の主催事業の一つとして行われた。私達の劇団、横浜ボートシアターの出演者九名と、インドネシア国立芸術大学の舞踊、演劇、音楽の先生方十名との合同公演で、インドネシア公演では芸大の学生達も多数参加した。
 上演作品は私の脚本、演出で題名は「耳の王子」、内容はマハーバーラタがジャワに伝わり、ン外年月の中でジャワ独自の世界観を持った神話として定着。そのジャワ版マハーバーラタに登場し、弟アルジュノと戦い命を失う悲運の王子カルノと、敗戦をインドネシアで迎え、その混乱の中で祖国を捨て、インドネシア独立軍に参加、オランダ、イギリス軍と戦い死んでいった残留日本兵の悲劇を重ね合わせ、私達にとって国家や民族、家族とは何か、そのはざまで無念の死を迎えた多くの死者達への鎮魂を願う、そんな作品内容であった。
 神話の中の登場人物や、戦死した日本兵には仮面を使用、舞踊あり、生演奏ありの二時間の芝居である。
 「耳の王子」はまず東京、横浜で上演し、その三ヵ月後芸大の所在地である人口二百九十万の街ジョクジャカルタで最終公演を迎えることになっていた。
 私は日本での上演に強い不満が残っていたが、その原因が何であるか答えを出せないままインドネシアに向かった。
 ジャワは雨季の真只中で、刻々と変化する空模様はいつ豪雨を降らせ、上演を中止させてしまうか、そんな不安の中で稽古が進み、日本から行ったメンバーは慣れない気候に、次々に体調を崩していった。
 街の中心部にある王宮広場を横切り、背の低い民家が並ぶ狭い路地を抜け、屋根のある門をくぐると、小学校の運動場ほどある広場の中央に、稽古場であり上演場所でもあるそのプンドボは建っていた。ここは百年ほど前、王宮用の建物として造られ、結婚式や舞踊や音楽の演奏会場として使用されていたが、今は公民館として芸大の学生達の稽古や町の人達のガムランの稽古や演奏会場に使用されているようだ。
 そのプンドボは奥行き三十メートル、幅二十メートルの大きさで、屋根を支える大小の木の柱と石の床だけの建物で、ロビーも無ければ舞台照明設備や音響設備、楽屋もなかった。


(注)この文章は以前、十勝毎日新聞に掲載された文章です。

2011年5月3日火曜日

場の持つ力 その1 均一化してゆく都市や劇場

昨年(1995年)の十二月一日、私は十勝環境ラボラトリー「国際環境大学公開講座」に講師として呼ばれ、“劇場その「場」の持つ力”のテーマで話すことになり、四十五年ぶりに帯広の街を訪れた。
四十五年前、その頃私は画家になることを目指していたから、その旅はスケッチ旅行で、たしか帯広から然別湖に向かったと記憶している。
今回十勝環境ラボラトリーの専務、坂本和明さんに帯広の街を案内していただいたのだが、残念なことに、かつて訪れた時の街の面影を何一つ見出すことはできなかった。四十五年、この年月を長いと考えるか、短いと考えるかはひとそれぞれだろうが、ともかく私にとって帯広は未知の場所に変貌してそこにあった。
今回の北海道行きには、もう一つ別の目的があり、劇団横浜ボートシアターの私が演出した、仮面劇「小栗判官・照手姫」の遠別、美深、鷹栖、大樹などの小さな町での上演の為であった。各町の上演会場はすべて公共の会館で、入場者四、五百名、建造されてまだ二、三年の新しい会館である。
それぞれの会場で上演しながら気付かされたことだが、大きさや、多少の舞台機構の違いはあるにしても、なぜこれほどまでに似かよった無機質でガランドウの劇場が各地に作られてしまったのでだろうか、改めて考えさせられてしまった。
四十五年ぶりに訪れた帯広の街も、これといって特色のある家並みや、ふと足を止めて中に入りたくなるそんな建物に出会うことも無く、日本中どこにでもある新興の街が持つ、あのしらじらしい風景と変わりない。遠別から大樹までの移動中の、車窓から眺めた町並みや建物も、帯広の街が私に与えた印象と大差はなかった。
しかし、こうした現象は北海道だけに限ったことではあるまい。日本各地、年々地域の差は無くなり、歴史性も遠のき、無機質な均一化に進んでゆく様子は不気味でさえある。
今度の旅の途中、私は旭川の街で、凍りついた道路の上を二人の若い女性が、茶髪、ミニスカート、厚底靴で滑って転ばぬよう、お互いに手をとりながら、必死で歩く姿を見かけた。その寒々しい様子は涙ぐましくも滑稽で、私が以前或る東南アジアの熱帯の国を訪れた時に聞いた次のような話を思い出していた。その国の大統領夫人が、冷房をガンガンにきかせた会場に、高価な毛皮をまとった女性たちを集め、毛皮パーティーを開催しているというのだ。二年後その国の大統領は夫人とともに国外に逃亡した。
確かにオシャレは流行を追いかけたい気持ちと、人とは違うものをという二つの相反する意思を持つ。しかし旭川の少女と毛皮の大統領夫人の行為から私が感じるものは、場所柄の無視、創造力の欠如であり、ともかく、ダサイと思うのだが…。

2011年4月1日金曜日

私にとって演劇とは

 第二次大戦末期、中学生だった私は、勤労動員先の飛行機工場で、同級生数人と共に、同じ工場で働いていた他校の学生達に声をかけ、演劇の稽古を始めた。
 それは近い将来、自分たちは戦場に赴き命を失うかもしれない、せめて生きていられる間に、やってみたい事をやろう。そんな思いからの行動であった。
 だが、日増しに米軍の空襲は激しくなり。工場も爆撃を受け、多くの死者も出た。演劇の稽古どころではなくなり。我が家は強制疎開、一家をあげて北海道旭川に移住。私はそこで敗戦を迎えた。
 死なずにすんだ。兵士にならずにすんだ。やりたい事が出来るかもしれない。そう
思いながらも、戦後の価値観の逆転にとまどい。この国は、この民族は、この自分は何? そんな疑問が目の前に大きく立ちふさがった。
 私は焼け野原となった東京に単身もどり美術大学に入り、卒業後、しばらくして奇しくも演劇作りにたずさわるようになった。
 昨年、私は八十歳を越えた。
 自分ではイメージしていなかった年齢領域である。おそらく体力が続く間はこの仕事は止めないだろう。
 戦争末期、あの空襲の中で、演劇の稽古を始めた。中学生時代の気持ちを思い返しながら。