2011年11月30日水曜日

音と言葉の身体 その4

第四回 古典劇、現代劇

遠藤
現代劇の俳優さんも、古典劇を学ぶべきです。どんなシステムで、どんな指導かはありますけど。そして様々な文体と四つに組むレッスンをしないとだめですね。

――そのテキストになるのはどういうものでしょうか。やはり中世の語り物、あるいは能になるのでしょうか。

遠藤
そうですが、様式の語り口が出来上がっているものは避けたほうがいいと思います。
テキストそのものから立ち上げてゆくほうが私はいいという考えです。
たとえば狂言にしろ能にしろ、それをきわめるには何十年もかかってしまいます。現代劇を作ってゆくなかで現代日本語をどう生き生きしたものにするか。その視点に立って古典をあつかうべきでしょう。言葉それは今つくられたものではありません。僕はよく俳優にいうんです。言葉は君よりエラいのだとね。

――困難な事を遠藤さんはやっていますよね。その演劇活動、海外により伝わっているようですが。そろそろ<遠藤メソッド>が出来る(笑)。何が違うんでしょう。

遠藤
日本の演劇界、特に現代劇がもっている価値観の問題ではないでしょうか。別に私は古典をやっているわけじゃありません。要するにわが国の近代演劇や現代劇が観念や心理主義に振り回され、自分達の歴史性、身体性を失ってしまったからでしょう。

――これまでの近代劇・現代劇の観念や心理あるいは文学に比重がかかっていた演劇から模索されて、<遠藤メソッド>の演劇に踏み出していますよね。古典の訓練をしていない俳優さんたちと芝居を作っている。私も何回も拝見した「小栗判官照手姫」、さきほども言いましたが、ほんとうに強烈な印象でした。六百年以上も前の説話が今の私たちにこんなにもいきいきと面白い。

遠藤
そうですね。ですから、私は日本語に身体性を取り戻す作業をやってきたつもりなのです。身振りにしてもアジア的な創作仮面をつくり、レッスンしたり、仮面劇を上演したりしてきました。それがけっこう大変で、新劇やアングラ演劇系の連中からさよならされてしまった感があります。

――ほんとうに開拓民ですね(笑)。古典の人達からの反応はどんなでしょうか。

遠藤
古典をしっかりなさってきた方は受け入れていただけます。たとえば文楽の太夫さん、言葉と本当に葛藤してきた方が「小栗」の舞台を見て、新鮮な面白さを感じていただけました。
ところが中途半端に古典かぶれした人たちは古典と比較して、見るのか批評的で評判が良くありません。

――そうなんですか。遠藤「小栗」は日本の言葉の文芸の大きな流れのなかに位置していると思います。これはある種ルネッサンスですよね。

第五回 インドネシアの舞踊や演劇 に続く

劇作家・演出家 遠藤啄郎
聞き手       山本 掌
雑誌『月球儀』記載記事より 

2011年11月29日火曜日

音と言葉の身体 その3

第三回 呼吸の詰め放し

――日本語のダイナミズムですか。日本語、言葉のバランスはどうなのでしょう。たいへんだろうなぁ。言葉を発する身体、あるいは呼吸について少し話してくださいますか。

遠藤
最近の人達は日常の会話の中でも、語尾まできっちり音にしない習慣がついていて、若い子なんかは語尾を飲んでしまったり、呼吸を放してしまう。ですから何が言いたいのか、はっきりした意志が他者に伝わらない。あいまいにしてしまう。しっかりした呼吸の切りかえができなくなる。
古文でも現代文でもそれは同じだと思います。つまり、言葉や文体にあわせての呼吸の変化にとぼしい。呼吸の詰め放しがわからなくなっている。
そこをしっかりやっていかないと、ただ感情を強く出したり、悲しそうに言うことができても、“言葉の表現”としては、とてもやせたものにしかならない。
近代・現代詩というのは声にするのがむずかしい。しかし朔太郎だとやはりちゃんとそこに呼吸が書かれているように思います。骨格があると言いますが、これはムードで詩を朗読するのとは違い、なんと言いましょうか……。
詩には行間を埋めてゆく、飛躍をしっかりとつかまえ音声化する、呼吸化してゆく。そのことによって、読んでいた時にはわからなかった世界が立ちあがり、語り手の個性をともないながら、生き生きとした世界が伝わってゆく――。
以前、フランスの舞台俳優さんで、マドレーヌ・ルノーさんの舞台を見ました。

――はい、見たことがあります。

遠藤
彼女がベケットの「勝負の終り」だったと思うのですが――間違っているかもしれませんが、彼女の一人芝居で下半身が土の中にうまっていて、おへそから上だけが見え、衣装はたしか、うすいシュミーズのようなのをきていただけでした。私はフランス語はぜんぜんわかりません。ですが、マドレーヌ・ルノー^さんのセリフがまるで次々に様々な花火があがるように飛び出し、薄い衣装のしたで下腹部が動くのが見えみごとだとおもいました。リアリズムでない不条理劇での言葉だからこそ、より身体的な表現が大切なのだと納得したのを覚えています。

――いいまのお話で思い出したんですが、マドレーヌ・ルノーさんのだんな様のジャン・ルイ・バローさんが日本にやって来て、銕仙会で観世三兄弟が元気でやっていた時にワークショップがありました。なかで一番印象深かったのが「Travail la mort」死への向かってゆく道程(死への仕事)、これを呼吸で表す。
能のかたちで、それからバローさんのやりかたで。それが<呼吸>だったんです。能でもフランスの演劇でも呼吸だけで、台詞がひとつもなくても死へ向かってゆく生々しい「生」のありようがはっきりと見えました。
どちらの演劇もある様式のなかで培われて、そこに通底しているものがあるのかと思いました。それが呼吸なのでしょうか。

遠藤
呼吸の詰め放しの展開の中にこそ基本があると思います。

――表現のもと、根源みたいな。
もう見えるんですね、呼吸が。それこそTシャツ姿だったので、筋肉の動きもはっきりとみえます。さきほどのルノーさんのお話のように。呼吸音まで伝わってきました。

遠藤
体の動き、身振りも一緒だと思いますよ。軸があって、中心があって、やはり呼吸が大切で、言葉と身振りをいかにおりあいをつけ、演劇の場合は表現を生みだすかですね。

――いままでのお話で、呼吸や身体、そのささえからの、「言葉のもつ力」、それをとても感じます。新劇に代表される演劇ではどうしても言葉の観念的な、文学的なことで出来ているように思えます。遠藤さんはどう考えているのでしょうか。


劇作家・演出家 遠藤啄郎
聞き手       山本 掌
雑誌『月球儀』記載記事より

第四回 古典劇、現代劇 に続く

2011年11月28日月曜日

音と言葉の身体 その2

古典を朗唱する

――遠藤さんは中世説話「小栗」から中世の言葉をそのまま活かして「小栗判官照手姫」を創られました。初めて観たときはカルチャーショックでした。芝居としてもですが、言葉の強さに圧倒されたのかな……中世の言葉、それを発語する俳優にとってはどうなんでしょうか。

遠藤
ええ、中世の物語 説教節「小栗」を舞台化して上演しました。
古典の劇、歌舞伎、能、狂言、文楽などでは中世の言葉や江戸時代の言葉をそのまま使っていまも上演されています。
しかし現代の俳優がやるときに歌舞伎や狂言の言い回し、調子をまねしたからといって、うまくゆくわけではありません。
私達が中世の語り物の文体を使ってやるときには、当然ですがまず台本の解釈から入り、それを現代の感覚、認識の中で再構成してゆく作業が必要なわけです。そして新しい語り口を作ってゆく。たいへんな作業ですがね。
現代の芝居の場合、ほとんど日常会話が主で、感情表現、心理表現が主ですから、たとえば説教節のような叙事詩的な文体は、なかなか現代の俳優さんは苦手なのです。ですから海外のもの、ギリシャ劇やシェイクスピアーを上演する時、狂言や歌舞伎の俳優さんのほうがうまくいったりする。
しかしなんとか中世の持っていた日本語のダイナミズムを取りもどせないかと考えます。
これはロシアの演劇大学に留学した人に聞いたのですが、留学生も自国の古典を朗唱する訓練がボイストレーニングのなかに入っているそうです。ですから日本人でしたら原文でたとえば「梁塵秘抄」とか「平家」を読むんだそうです。様式化されたものをまねして語るのではなく、自分で理解して語る。
日本の演劇学校では、やっていませんね。
言葉の身体性、歴史性を自覚してゆくには、どこの国や民族でも大切だと思うのですが。

――中世は今から六百年以上ですか。遠藤さんはそれを意図して、選んで戯曲にしていますね。それを実際にせりふとして音声化、身体化をする俳優さんにとってはどうなんでしょうか。

遠藤
まず戸惑じゃないでしょうか。だからたとえば「平家物語」を読んでみなさいといっても、古典劇をやってきた人ならば言葉の意味だけでなく、言葉の調子・リズムがすぐにとれますけれど、実はその調子が問題なんであって、それは何々調、たとえば歌舞伎調、狂言調になる。そうじゃなくて現代の自分達の身体を通して読みなおしてゆく作業の中で、リアリティが生まれ、役者個人個人のなかにも生まれる。そして新たな説得力が出てくる。そしてそれは現代文を使う場合にも、日本語のダイナミズムをとりもどすことが可能になるのではないでしょうか。

呼吸の詰め放し に続く

劇作家・演出家 遠藤啄郎
聞き手       山本 掌
雑誌『月球儀』記載記事より

2011年11月27日日曜日

音と言葉の身体 その1

劇作家・演出家 遠藤啄郎
聞き手       山本 掌
雑誌『月球儀』記載記事より 

第一回 日本語を発する

――最初にこれまで演出された舞台の経験から「音・声」と「言葉」について感じられたことをお話いただけますか。

遠藤啄郎(以下遠藤)
言葉って意味だけのものじゃありませんよね。音、声、表現の中でどのように日本語の音を発するか、呼吸をいかに使うかが基本なわけです。
海外公演では日本語でやり、字幕スーパーを出します。イヤホンで聞きながら見るというのがありますが、私はどうも好きじゃない。変に芝居がかってやられると、邪魔になります。しかし字幕スーパーも文字が多すぎると見切れないし、芝居の方もよく観ることができなくなる。ですからダイジェストします。セリフを全部訳すのではなく、ポイントだけを訳したり、時には少々邪道ですが、場面のポイントを解説して出したりします。そしてセリフの音や、言いまわしをよく聞いてもらえるよう心がけるんです。
  時たま、日本で上演するときより海外での公演が良くなる時がありますよ。

――それはどうして。

遠藤
日本語のわからないお客さんの前で日本語で演ずるわけですから、なんとか伝えたいと思う意志が強くはたらくからだと思います。それが俳優の気持ちに現れ、身ぶりも含めて、丁寧になり「いいな」と思うときがあるのです。
自国で上演するにも、それくらいやればと思うのですが、なかなかそうはゆかないようです。
最近の芝居を見ると、あまり日本語のことを重要に考えなくなっていて、見せることや笑わせることばかり表面に出て、言葉のダイナミズムを感じる舞台が少なくなっていますね。

――それは感情をこめたり、役作りどうするかとなってしまって、日本語をどう発するかという観点がないからでしょうか。

遠藤
身ぶりにしても、言葉にしても、それは脚本の文体によって違ってきます。かつては歌舞伎や浪花節、義太夫節、講談などの名調子を一般の人々が暗記し、口づさんだりしたものでしょう。今はほとんど聞かなくなりました。ヨーロッパなどでもたとえばシェイクスピアーのセリフ、名調子を、会話やスピーチの中で使ったりするわけです。
現代劇ではその名調子を失ってしまいましたね。
演説でもそうです。最近の例で言うとオバマさんの演説と麻生さんの演説を聞き比べても、その差はあきらかですよ。
テレビや映画の吹き替えはどうも好きではありません。なにか一番大切なものが失われるような気がします。特に外国の名優の吹き替えは残念に思います。
声優が日本語に置きかえることによって、演技の一番大切なものが失われてしまう気がします。

――あ、その「置きかえ」という言葉ですが、知らない言語であっても、言葉がわからなくても「伝える力」がある、ということでしょうか。

遠藤
ですから海外の芝居でも、良い芝居の場合は、一つ一つの意味がわからなくても、内容が伝わってくる。面白いものは笑えたりする。外国に行って観た芝居でも何度かそうした体験ばあります。
舞台での言葉というのは、最後は音やリズムにたどりつくと、僕は考えて芝居を作っています。それが言葉を身体化してゆくことです。

――言葉の身体化ですか。

第二回 古典を朗唱する に続く

2011年11月26日土曜日

『火山の王宮』~象を殺した者

『火山の王宮』~象を殺した者 当日パンフレットより

本日はお忙しい中をご来場いただき、まことにありがとうございます。

石川町の駅前で木造の艀を劇場に、横浜ボートシアターを始めて25年。
木造船の二度の沈没。そして現在の鉄製の艀。しかし現在、ふね劇場が係留している岸壁での公演はできない。せいぜい稽古場としての使用が限度で、名実ともに「ふね劇場」として活動できることが我々の悲願です。
ともかくも25年間、我々は様々なことに出会いながら、多くの人々の力に助けられてやってきました。これから先どこまで続けられるか分かりませんが、今までもそうであったように、まず一回一回の作品づくりに全力を尽くすこと。劇団や劇場、それは作品を作るための大切な仕掛けであり、それに尽きるのだと思います。

「火山の王宮」の原作、エリザベス・プラセトヨ著「白い菩提樹」はインドネシア語・フランス語・英語・日本語の四ヶ国語で書かれ、インドネシアを代表する画家の一人ヘリドノの装丁・挿絵による美しい本です。
私がこの本に最初に出会ったのは1998年。その年の10月に劇団が上演した「HOTEL 水の王宮」の準備のために出かけたジョグジャカルタの町で立ち寄った画廊「チムティ」でした。この年はインドネシアで政治暴動があり、それまでの大統領が替わった年でもありました。
「白い菩提樹」の本に出会ってから約10年。
多くの方の協力があり今回の上演が実現しました。なかでも長年に渡りバリやジャワの写真を撮り続けてこられた、古屋均さんの協力がなければ実現できなかったでしょう。心よりお礼申し上げます。

題名の「火山の王宮」は、やはりジョグジャカルタに実在する「水の王宮」をイメージして作った「HOTEL 水の王宮」にちなんでつけた題名です。

2006年5月、「火山の王宮」の台本を書きあげようとしていたやさき、中部ジャワ地震が起き、多くの人々が亡くなられました。
幸い現地の知り合いの方々は無事でしたが、かつて横浜・東京・ジョグジャカルタで上演をした「耳の王子」を、横浜ボートシアターと共同制作したインドネシア国立芸術大学の校舎が大きな被害を受けました。私は完成間近であった「火山の王宮」の台本の大きな書き直しを余儀なくされました。

被害にあわれた方々のご冥福を、心よりお祈りします。

2007年3月16~18日 両国シアターχ
2007年3月21~24日 横浜赤レンガ倉庫1号館ホール
劇団創立25周年記念『火山の王宮』 当日パンフレットより

2011年11月14日月曜日

再生作業としての演劇行為 その8

第8回 船劇場での実験――自らを再生する作業

いかに身体性を取り戻すかという理由で仮面を使い始め、古い物語を読み直し、今に再生させる――こうした作業を私は続けてきました。そして演劇は空間表現であり、稽古場、劇場が、その作品の内容と大きくかかわりを持ちます。その一つの実験として、私達は船の劇場で稽古し、公演を続けてきました。船という場所だからこそ、「小栗」のような作品が作れたのだと思います。近代劇場は確かに便利ですし、観客も見やすいとは思います。そういう意味では非常に合理的にできています。擬似空間、擬似の闇を作り出し、光をあてて明るくしたり暗くしたり、夜になったりするといったことでは非常に発達してきています。でも、場が持っている歴史性とか、一つの不思議さとか、力といったものは、もう近代劇場にはないのです。場としての力はありません。
木造船の中の劇場を胎内空間だと言った人がいます。そこは旅立ちなどいろいろなイメージを私達は持つことができ、日常から離れ、劇を体験するにはとても理想的な場所です。しかし現在は、行政から係留の許可がもらえず、劇場としては機能していませんが、稽古場として使っています。
そこで何をしたかったかというと、それはタイトルにもありますように「物語を再生する」こと。この物語を再生するということはどういうことなのか――これは自らが再生する作業であったと、私は思っています。自分たちがどのように演劇を通じて再生するのか。演劇をどこかに売るとか、演劇によってスターを作るとかといったことにはほとんど無縁の仕事なのですが、その中で見る観客、それから私たち自身が、物語の中で仮面を借りて再生をしていくという、一つの実験でもあるし、その過程でもあると考えて、自分なりに作品を作ってきました。
身体の再生の為の仮面、そして物語、船劇場――これが私が考え、実践してきた私達の演劇活動です。では本日の話はここで終わります。

  こちらにあります仮面を、ぜひ手にとって見、顔につけてみて下さい。
鏡も二つ用意してあります。
  ぜひ仮面をつけた自分を見て下さい。

(二〇〇五・四・一五 北方文化フォーラムより)
再生作業としての演劇行為(終)

2011年11月13日日曜日

再生作業としての演劇行為 その7

第7回 仮面劇『小栗判官照手姫』――死と再生の物語

この物語をもとにして作られたのが仮面劇『小栗判官照手姫』です。
『小栗』を作るにあたり、仮面だけでなく、衣装や音楽につていてもいろいろな工夫をしました。衣装では、日本の時代劇なのですが、和服を使うことを避けました。なぜかと言いますと、和服の場合、身体表現に限界があります。たとえば女性が和服では足を思いっきり上げられません。だからと言ってズボンやタイツ姿では様になりません。どこかに我が国の伝統性を感じさせ、豪華さや優雅さを出すために、時間をかけて集めておいたアンティックの丸帯や布などを使い、シルエットは東南アジア、たとえばジャワ風やバリ島風のスタイルを取り入れたりしました。
音楽も邦楽器などの使用を避け、アジア各地の打楽器や笛、弦楽器などと、創作楽器、竹製のマリンバやフライパンで作った楽器などを使い、どこか特定の民族や地域が出ないように心がけました。
ちなみにセリフ、言葉はできるだけ原文を生かすように台本を作りました。小栗の言葉は、もともと語るための文体として書かれたものですから、その力強い日本語の語感を失わないように心掛けたのです。だからと言って、歌舞伎調でもなく、能や狂言風に表現したわけでもありません。今の私達でも演じられるセリフづくりを行いました。このような作業を積み重ねて舞台化したため、その準備や稽古は、そうですね。はっきり覚えてはいませんが、五年ほどかかったかもしれません。
このお話はどこの民族にも残る死と再生の物語であり、男が一人前の人間として成人する、その支えとなった照手姫の物語としても読み取ることができます。また、熊野は日本民族にとって長い間聖地としてあがめられた場所であり、餓鬼はハンセン氏病、ライ者をイメージすることができます。
この芝居をイギリスで上演した時、或る評論家が「この物語は、戦の男神と愛の女神の物語であり、最後に愛の女神が勝利する」と説明していました。
私にとってこの物語は、仮面劇にするにはまたとない題材であり、再生としての演劇にはうってつけの題材でした。
この『小栗』を一番最近海外で公演したのは二〇〇三年、ルーマニア、そしてモルドバの国立劇場でした。その時にモルドバの『文化と芸術』という新聞に掲載された、女性の記者でジュリアナ・アルマッシュという方が書いたものを紹介させていただきます。

「今回のヴィジェーヌ・イヨネスコ演劇祭(世界的に有名な前衛演劇作家の名前をつけた演劇祭)の中で私が特に観たかったものは日本の劇団の舞台であった。なぜならば何か新しいものを見せてくれる、ヨーロッパの舞台とは違うものが観られるからである。私の考えは間違ってはいなかった。本年五月二八日、キシノウ(モルドヴァの首都)の国立劇場の舞台には、神話と現実、混沌と秩序、暴力と優しさ、死と生命、魂とその物質的反応が調和を壊すことなく、偉大な日本の神秘とともにハーモニーを維持して共存するという、オリジナルな舞台が展開された。
この『小栗判官照手姫』は、“横浜ボートシアター”によって演じられた。この劇団は横浜港に浮ぶボートで(当初は木製、その後鋼鉄製)活動を展開しており、その名がついている。台本のテーマは古い物語をベースにしているが、演出家遠藤啄郎の優れた才能によってさまざまな神話的要素を取り入れている。
卓越した技能は仮面(これも同じく遠藤啄郎の手になる)にも示されているが、これは日本の伝統演劇には欠かせないものである。この伝統演劇は、われわれヨーロッパ人にはモダンでしかないのだが。こうして『小栗』は三つの姿を現す。生・死・復活である。さらに、おそらく演出家としては、少人数の俳優でこれだけ大きな舞台を演ずることを可能にする節約の精神もあったのではないか。
舞台の上に映し出されたルーマニア語のテキストのおかげで、疑問に思う点の細部まで理解できた。物語は、各部分ともに登場人物の一人によって語られる形をとっている。物語はすばらしい語りの行為によって、あたかも存在するように私は感じることができた。おそらく他のすべての人もそう感じたであろう。これは、あたかも「まず初めに語りありき」という思想、あるいはモダンな表現ではデカルトの「私は語っているのだから、存在する(我、思う故に我有り)」という考えにいたる。この日本的範例は、(ポスト)モダン哲学の理論が完全に押しつぶされてしまうものであり、われわれに再び深遠なメッセージの解読を求めている。この意味でこの舞台の本質は、その主題にあるのではなく「いかに語られているか」、あるいは「いかに語られるか」にあると思われるのである。すなわち『小栗判官照手姫』の舞台では、完全にすべての要素が一つの言語に記号化されている(ほとんどテキストの必要がないほど)、照明、舞台装置、舞、音楽(日本の伝統芸術に適合させた特別な楽器)もそうであり、これは必ずしも解読を要求しない、理解されるものである。この言語は、日本の文字同様にただわれわれを魅了するばかりである。マジック・ショーのような雰囲気の中で、現実にわずかに傾斜しているような、あるいはその反対のような感覚がする。ここでは観客は、ヨーロッパの演出家によって劇化されたほとんどの舞台で起こるような、疑似体験は求められないように思う。あたかも現実の檻から解き放たれた心地よい快感が最後に残る、旅に連れ出されたようである。もちろんすぐにもとの場所に戻ることはわかっているものの(観客も製作者も同様に)、しかし、数時間でも昔の神話の世界に浸ることができたこと、そしてこの先別の世界もあり得るのだと知りつつ、囚われの身で居続けることに耐えることは、はるかに容易なものとなる。
日本の舞台は、矛盾の共存を完璧なまでに印象付ける。たとえば暴力は、武道によって表現されるのだが、われわれには優しさ、柔軟性に映る。また恐ろしい事態が展開するのだが、それは悲劇というよりも明るさをもっているのである。
『小栗判官照手姫』は、横浜ボートシアターによって一九八二年に初演されたが、演出家の遠藤啄郎は、その後も彫刻のように常により良いものを追及してきた。当然ながら、この努力は多くの賞によって報われてきた。また、エジンバラ、ニューヨーク、インドネシア、香港、シンガポールなどの国際演劇・芸術祭にも招待されている。「ボートシアター」は日本の伝統とギリシャ、インド、中国などのあらゆる神話の遺産を取り入れて舞台化した数少ない劇団の一つである。過去と歴史的想像の復興は、このすばらしい俳優たちの集団の成功をより大きなものとすることであろう。文化の再構築、まず何よりも古代の再発見を試みているヨーロッパでは、特にそうであろう。演出家の言葉によれば、演劇は人間との原始的なコミュニケーションの形態であるのだが、ヴィジェーヌ・イヨネスコ演劇祭で今後も日本の演劇と生で再び出会えるまで、少なくともこの形態を維持することを望んで止まない。」

もう一つ、やはりモルドバからメールで送られてきたファンレターを紹介します。

アブラモヴァラ氏よりのEメール 2003・5・29

「親愛なる友達
私は今、この手紙を遠いモルドバから書いています。しかし、昨日あなた方の劇団の俳優達のすばらしい演技を観てから、もはや遠い国ではなくなったような気がしています。あなた方の昨晩の公演に、心から「有難うございました」と申し上げたいと思います。それは私自身の内なる世界を覆すものでした。実際日本の文化は世界中で最も興味深く、ユニークな文化だと思っておりました。しかし(夕べの公演を観るまでは)日本人があのように素直で、美しく、尊厳を持っている人達だとは思っておりませんでした。
昨日の演劇は『小栗判官照手姫』というものでした。才能豊かな俳優達のすばらしい演技、音楽家や衣装デザイナーの素晴らしい仕事、そしてこの仮面劇の全体を創られたと伺っている遠藤啄郎氏の力量に感嘆いたしました。
この演劇に関っておられる全ての素晴らしい方々に感謝します。本当に見事な公演でした。この広い世界で私達を結びつけてくれたこの公演を、私は生涯忘れることはないでしょう。過去を尊重し、現在を賞賛し、そして未来に思いをはせ、そしてその全てをあらゆる人と分かち合いたいと思います。
あなた方が昨晩くださった素晴らしい時に心から感謝しています。チラシの裏にEメールアドレスを見つけて、黙っていることができませんでした。本当に素晴らしかった、有難う!」


第8回 船劇場での実験――自らを再生する作業 に続く

2011年11月12日土曜日

再生作業としての演劇行為 その6

第6回 仮面劇「小栗判官照手姫」――死と再生の物語 その1

どんな題材、脚本でも仮面劇になるとは限りません。ですから何を上演するか、その作品選びは難しいです。その中でこの二〇年間ほど再演を重ね、日本各地だけでなく海外、イギリス、アメリカ、東欧、香港、シンガポールなどでも上演した「小栗判官照手姫」についてお話します。
「小栗」の物語について、御存知の方もいらっしゃるかと思いますが、この物語は鎌倉時代末期に生まれ、それからずっと説教節として語り伝えられてきました。江戸時代に入ってから歌舞伎としても上演されました。しかしもともとは、平家物語などと同じように語りものとして生まれたのです。説教節といいますのは、お坊さんが信者に仏教説話などを語って聞かせたことから始まったもので、もともとが文字で読むのではなく、耳から聞く、語るために生まれた口承文学の一つです。
こうした芸能は我が国だけではなく世界各地にあり、特にアジアには「語り」の芸能がいろいろ残っています。最近、我が国では、文学作品を題材にした「朗読」や「語り」がたいへん盛んになり、たくさんのグループがあります。
ではここで、小栗の物語について簡単にそのストーリーをお話しましょう。
小栗は京都で大納言という位の高い家の一人息子として生まれ、たいへんに頭も良く、色男で、武芸にも秀でた若者に育ちます。しかし自由奔放な性格で、奥さんを七十二人も追い出し、京都のみぞろが池に住む大蛇の化身した美しい娘とねんごろになり、とうとう父親の怒りをかい、関東に追放されてしまう。しかし関東に来ても人気があり、多くの家臣が集まってきます、だがなかなか気に入った奥さんとは出会えないでいます。
すると旅の商人に、相模の国、今でいいますと八王子のあたりなのですが、その一帯を治めていた横山家に、照手姫という聡明で美しい娘がいると教えられ、照手の父親の許しももらわずに略奪結婚をしてしまう。横山一族はかんかんに怒って小栗を亡き者にしようと、騙して人喰い馬の鬼鹿毛に食べさせようとしますが、小栗は見事に乗りこなしてしまう。では次の手と考えた横山は、小栗とその家来達十人共々、毒の酒を騙して飲ませ、殺してしまいます。
しかし、勘当されたとはいえ、大納言の息子ですから、うっかりすれば天皇からおとがめもあるかもしれぬと、娘の照手姫も同罪とし、相模川に沈めてしまおうとするのですが、沈めることを命ぜられた家来が照手に同情して、殺さずに船に乗せ、流してしまいます。
照手は親切な漁師の親方に助けられるのですが、女房に人買いに売られてしまいます。そして照手は人買いの手から手に売られ、今でいう岐阜県大垣の近く、青墓になった大きな遊女屋で、遊女達に仕える下の水仕として働いています。
一方小栗は、家来共々死んで地獄に落ち、エンマ大王の前に連れ出されるのですが、家来達のたっての願いにより、再びこの世にもどされることになります。そして口もきけず、見ることも歩くこともできない、見るからに恐ろしい餓鬼の姿となり、墓を割ってこの世に戻ってきますが、エンマの手紙がその首にかけられ、「この者を熊野の湯の峰まで運び、その薬の湯につかれば元の小栗にもどれる」、と書いてあります。そのエンマの手紙を見た藤沢のお上人――時宗、一遍上人の起こした宗派で、現在も神奈川県の藤沢に遊行寺という時宗の大本山があり、そこには照手や小栗、鬼鹿毛の墓がありますが――そのお上人は餓鬼の姿となった小栗を土車――今でいいますと車イスでしょうか――そこに座らせ、「一引き引いたは千僧供養、二引き引いたは万僧供養」と唱えながら、熊野に向かって引き出します。小栗が殺されたのは神奈川ですから、熊野、和歌山までその長い道のりを、いろいろな人々の手によって引かれてゆきます。「一引き引いたは千僧供養」と言いますのは、土車を引いた人達の無くなった親、兄弟、子供、妻、友人などの霊のため、この土車を引けば千人の僧を集めて供養するよりも、もっと供養になるという意味です。
餓鬼の姿となった小栗を乗せた土車が、照手の働いている青墓の遊女屋の前で止まっているのを見つけた照手は、死んだ夫の小栗や十人の家来達の為にその車を引くことを決心し、主人に願い出て、五日間だけ引くことを許されます。照手は笹の葉に垂をつけ、顔に油煙の墨を塗り、まるで狂人のような姿となり、熊野に向けて引いてゆき、主人と約束したとおり、五日目に青墓まで帰るのですが、いよいよ別れの夜は、夫の小栗と知らずにグロテスクな姿の餓鬼に添い寝し、涙ながらに別れを惜しみます。この物語の中でも一番の聞き所、見所になっている場面です。
小栗の乗った土車は、道行く善男善女の手から手に引いてゆかれ、険しい山を越え、熊野の湯の峰の湯につかり、元の姿にもどります。その後、小栗は勘当された両親にも再会し、照手ともめでたく再会を果たし、末永く共に生きた。簡単に言いますとこうした物語です。


第7回 仮面劇「小栗判官照手姫」――死と再生の物語 その2 に続く

2011年11月11日金曜日

再生作業としての演劇行為 その5

様々な仮面 その2

仮面、それはどんな仮面でも、どんな動きをしなければならないというような約束はありません。レッスンの場合、まず仮面をつけて鏡の前に立ち、体全体となじませ、それぞれの仮面の持つキャラクターを自分なりに感じて動くようにします。その場合、その演じ手のイメージで動くのです。ただ顔の表情は見えないのですから、全身でその感情表現を表さなければなりません。またその表現が演じる者の内面とつながっていないと、より嘘っぽく見えてしまいます。
また仮面の持つ形、その特徴をつかみ、動きの中に生かしてゆく必要もあります。それに老人の面だからと、老人をパターン化して動いても面白くありませんし、動物の面だからと言って、ただ動物、たとえば猫の面だから猫の真似をしても面白くないのです。人は猫になれません。その仮面にあった新たな猫をつくりださなければなりません。

これはインドで生まれたマハーバーラタの物語を仮面劇として上演した時、私が作った仮面です。
マハーバーラタとは紀元前四〇〇年頃生まれ、四世紀頃完成した、世界で一番長く、一番古い物語といわれ、我が国にも影響を与え、アジア各地に伝わり、今も多くの人々に親しまれているものです。能や歌舞伎の中にもその物語の一部が作品化され、現在も上演されています。

私が舞台化したのは、インドからインドネシア、ジャワ島に伝わり、ジャワの王権神話や、のちにイスラム教の教えなども加わり、今も影絵芝居として上演されているものからです。マハーバーラタはインドネシア読みです。その影絵芝居のダラン、語り手によって語られる物語をもとに、脚本化して上演しました。
その物語の中で、影絵芝居に必ずと言っていいほど登場してくるペトルとガレンと呼ばれる道化の為に作った仮面です。黄色の方は、日本に古くからある腫面からヒントを得て作りました。
こうして見てくると、それぞれの民族や芸能の特色を、仮面が持っていることがよくわかります。その中でも仮面の眼の作り方にそれぞれの芸能の特色が現れています。どこが違うかと申しますと、眼の穴の開け方に特色があります。
能面はほとんど黒眼の所だけに穴が開いていて、演者はたいへん見にくいものです。それに能面はヒノキを彫って作るので、木の厚さの分だけ見にくくなっていて、それは能の表現様式に関係があります。まず能の舞台はその広さが決まっていますし、高低がなく、舞台の装置といってもシンプルなものです。動きも、たとえばとんぼを切るようなこともありませんし、重心を下にした動きですから、このようにあまり見えなくても安全なのです。能の演者は自分の進む方向はあまりよく見えません。ではなぜ、このような不便な仮面を使うのかと言いますと、能の表現は、内側のテンションを非常に高くし、表面は静かにという特色を持っているからです。
それにひきかえ、コメディア・デラルテの仮面は、この仮面を見てもわかるように目の穴が大きい、仮面によってはもっと大きく開けたものがあります。やはりこれもコメディア・デラルテの表現スタイルによります。とても激しい動きをするのです。ですから能面のようなものをつけて演じたら怪我をしてしまいます。
この能面とコメディア・デラルテの仮面の中間にあるのが、バリ島やジャワ島の仮面の眼の開け方です。眼球の下側にそって横に長く穴があけられています。ですから能面より良く見え、動きも自由です。バリの仮面をつけての動きを見ていますと、階段を上ったり下がったり、野外での上演が多く、とんぼまでは切りませんが体を廻転させる動きも多いようです。
このように、仮面はそれぞれの芸能の持つ表現スタイルによって、作り方が違っています。
以上申し上げてきたように、仮面はそれぞれの民族や表現様式の違いが反映されて作られていますので、どんなものにも使えるというわけではありません。ですから、表現したい方向性に見合った物を作る必要があり、だんだんに新しい仮面を創作する方向になり、自分で仮面を作るようになってゆきました。
最初の方で、現代の仮面劇を上演する劇団やグループがほとんどないと申し上げましたが、その一つの理由に、創作仮面の作り手がほとんどいないのです。舞台美術のデザイナーや造形作家、人形劇の人形作家などが作る場合がありますが、手間が大変な割りに、顔につけ、表情豊かに見え、キャラクターを持ったものを作るのはなかなか難しく、また需要もそれほどありませんから、創作仮面を作る人はあまりいないのです。もしもっと仮面を作る人がいたら、仮面劇や仮面舞踊をやる人は増えるのではないでしょうか。

再生作業としての演劇行為 その6 に続く。