2011年11月29日火曜日

音と言葉の身体 その3

第三回 呼吸の詰め放し

――日本語のダイナミズムですか。日本語、言葉のバランスはどうなのでしょう。たいへんだろうなぁ。言葉を発する身体、あるいは呼吸について少し話してくださいますか。

遠藤
最近の人達は日常の会話の中でも、語尾まできっちり音にしない習慣がついていて、若い子なんかは語尾を飲んでしまったり、呼吸を放してしまう。ですから何が言いたいのか、はっきりした意志が他者に伝わらない。あいまいにしてしまう。しっかりした呼吸の切りかえができなくなる。
古文でも現代文でもそれは同じだと思います。つまり、言葉や文体にあわせての呼吸の変化にとぼしい。呼吸の詰め放しがわからなくなっている。
そこをしっかりやっていかないと、ただ感情を強く出したり、悲しそうに言うことができても、“言葉の表現”としては、とてもやせたものにしかならない。
近代・現代詩というのは声にするのがむずかしい。しかし朔太郎だとやはりちゃんとそこに呼吸が書かれているように思います。骨格があると言いますが、これはムードで詩を朗読するのとは違い、なんと言いましょうか……。
詩には行間を埋めてゆく、飛躍をしっかりとつかまえ音声化する、呼吸化してゆく。そのことによって、読んでいた時にはわからなかった世界が立ちあがり、語り手の個性をともないながら、生き生きとした世界が伝わってゆく――。
以前、フランスの舞台俳優さんで、マドレーヌ・ルノーさんの舞台を見ました。

――はい、見たことがあります。

遠藤
彼女がベケットの「勝負の終り」だったと思うのですが――間違っているかもしれませんが、彼女の一人芝居で下半身が土の中にうまっていて、おへそから上だけが見え、衣装はたしか、うすいシュミーズのようなのをきていただけでした。私はフランス語はぜんぜんわかりません。ですが、マドレーヌ・ルノー^さんのセリフがまるで次々に様々な花火があがるように飛び出し、薄い衣装のしたで下腹部が動くのが見えみごとだとおもいました。リアリズムでない不条理劇での言葉だからこそ、より身体的な表現が大切なのだと納得したのを覚えています。

――いいまのお話で思い出したんですが、マドレーヌ・ルノーさんのだんな様のジャン・ルイ・バローさんが日本にやって来て、銕仙会で観世三兄弟が元気でやっていた時にワークショップがありました。なかで一番印象深かったのが「Travail la mort」死への向かってゆく道程(死への仕事)、これを呼吸で表す。
能のかたちで、それからバローさんのやりかたで。それが<呼吸>だったんです。能でもフランスの演劇でも呼吸だけで、台詞がひとつもなくても死へ向かってゆく生々しい「生」のありようがはっきりと見えました。
どちらの演劇もある様式のなかで培われて、そこに通底しているものがあるのかと思いました。それが呼吸なのでしょうか。

遠藤
呼吸の詰め放しの展開の中にこそ基本があると思います。

――表現のもと、根源みたいな。
もう見えるんですね、呼吸が。それこそTシャツ姿だったので、筋肉の動きもはっきりとみえます。さきほどのルノーさんのお話のように。呼吸音まで伝わってきました。

遠藤
体の動き、身振りも一緒だと思いますよ。軸があって、中心があって、やはり呼吸が大切で、言葉と身振りをいかにおりあいをつけ、演劇の場合は表現を生みだすかですね。

――いままでのお話で、呼吸や身体、そのささえからの、「言葉のもつ力」、それをとても感じます。新劇に代表される演劇ではどうしても言葉の観念的な、文学的なことで出来ているように思えます。遠藤さんはどう考えているのでしょうか。


劇作家・演出家 遠藤啄郎
聞き手       山本 掌
雑誌『月球儀』記載記事より

第四回 古典劇、現代劇 に続く

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