2011年12月1日木曜日

音と言葉の身体 その5

第五回 インドネシアの舞踊や演劇

遠藤
インドネシアの舞踊や演劇の人達と作品づくりをしたのですが、やはり彼等も我々と似た思いを持っているのを感じました。

――インドネシアで古典は伝承されているんですか。もともとの形は。

遠藤
その時一緒に作品づくりをした人達の多くが子供の頃から、古典舞踊をやってきた方々だったせいもあるのですが、現代の視点で何を表現したらよいのか、悩んでいる感じが強くしました。僕なんかにとっては、インドネシアの古典は自国の古典より魅力的なんですけれどね。

――きっと西洋文化が当然のように入っていて、そこの視点からみるから、ディスカバー・アジアのようになるのかな。

遠藤
僕が自国の古典を学び、その中から方向性を見つけてゆこうとしていた時、アジアの伝統芸能に出会い目からウロコとでもいいますか、自由になれたんです。
自国の古典は自分にとって、どこか、窮屈なものになっていた。そんなこともあって、特に「小栗」には音楽、動き、衣装、仮面などにアジア、特にインドネシアのものを取り入れました。

――ちょっと言葉について話をもどしたいのですが。

遠藤
どうぞ。

――いま言葉を音声化する、身体化するということで話していただいていますが、現代ものとの一番の違い、何だとお考えでしょうか。

遠藤
何が違うか、難しいですね。
私は古典をアレンジして、たとえば「小栗」や「マハーバーラタ」のような作品と現代を描いたオリジナル作品両方を舞台化していますが、どちらかと言うと、演出、脚本とも古典ものより、むずかしい。

――それはなぜでしょうか。さすがに古典は何百年も生きてきて、その言語・言葉そのものにエネルギーがあるからでしょうか。

遠藤
そうですね。それをつかめば、伝わりやすい。観客は古典の教養が特に無くても、潜在意識を揺り動かしてあげれば、共感を得ることが出来ます。私は現代をテーマにしたものと、中世の物語や神話、民話などを題材にしたものと、両方を舞台化してきたのですが、私の場合は昔の物語を作品化したもののほうが、どうも受けがいいようです。

――受けるっていうのは、書いたご自身も手ごたえを感じると言うか。

遠藤
興行的なことです。

――興行的に(笑)。それはそれは。

第六回 賢治の日本語 に続く

劇作家・演出家 遠藤啄郎
聞き手       山本 掌
 雑誌『月球儀』記載記事より

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