2011年12月23日金曜日

「小栗」のエネルギー

1983年3月 下北沢・本多劇場
「ニッポン人の喜怒哀楽――語り物の世界」からの抜粋

中世末期に生まれ、民衆によって語り継がれて来た語り物説経の代表作ともいえる「をぐり」。その文体のエネルギーをなるべく失わぬように脚本化し仮面劇としたのが、「小栗判官・照手姫」である。
「をぐり」の物語がかかえる宇宙的ひろがりもさる事ながら、その文体が持っている民衆的エネルギーは、ひとたび音声となり空間にはなたれる時、音色は原色と金泥に輝くマンダラの世界となる。その世界をささえる演者の肉体は、よほどのエネルギーを燃やさないかぎり、文体の力にねじふせられてしまう。
アジアの楽器、手作り楽器による下座音楽のナマ演奏。
古い帯地を何十本と集めて作られた衣装。
胡粉と和紙で一人一人の演者の顔にあわせて作られた仮面、インドネシア・バリ島の仮面、藍染と金の幔幕、青竹の門柱の奥にしつらえた御神体。
それらもすべて文体を支える手だてであり、その為についやすエネルギーは、現代社会が、私達が、失いつつある、もろもろの退行現象から脱出する作業の一つなのだ。
私達はこの三年間、横浜石川町の運河に浮ぶ木造船を劇場、ケイコ場とし、ベルギーのバロック劇の劇作家、ゲルドロード作「エスコリアル」、アフリカ、ナイジェリアの作家エイモス・チュツオーラの死者を探してめぐり歩く物語り「やし酒飲み」、宮澤賢治原作「セロ弾きのゴーシュ」、そして「小栗」――以上四本の仮面劇を上演してきた。
なぜ仮面劇か。それは仮面の持つ力が、私達の作業をより強力にしてくれるからである。又、音楽をすべて生演奏としてきたのも同じ理由からであり、私達の木造船の劇場は、そのエネルギーを絶やさぬ為の道場であり、祭壇なのである。
横浜ボートシアターの今後の予定としては、新宿モーツアルト・サロンにおいて今年の四月第一月曜日から六月の最終月曜日まで三ヶ月間、「小栗」の公演をおこない、その後、年内は「セロ弾きのゴーシュ」などの小公演、仮面、語り、インドネシア舞踊などのワークショップ、来年度は「マハーバーラタ」の上演を予定している。
その下準備の為、スタッフ、出演者など十名は、この二月約一ヶ月間、インドネシアに研修旅行を行った。

今回の本多劇場の公演は横浜ボートシアターとしては初めての東京公演であり、プロセミアム劇場での公演である。船の空間を離れ、どのように作品が歩き出すか、私達にとって、その不安と期待は大きい。
この公演を実現して下さった。本多劇場、中村とうよう氏、TTCの横田氏の皆さんに、感謝の気持ちをのべるとともに、その期待に応えられるよう努力する次第である。


*現在、横浜ボートシアターは新山下に係留している鋼鉄製のふね劇場を拠点としています。
*これは1983年の記事です。

2011年12月2日金曜日

音と言葉の身体 その6

第六回 賢治の日本語

遠藤
現代作家のものでいえば私が、四つに組めるのは宮澤賢治。あの人の文体、文章がもっている力は連綿と続いてきた日本語の力、身体化できる言葉を持っています。近代文学の枠からはずれた力を持っていますよね。ですから彼が詩や童話、童話ともちょっと違うかな。

――ちょっとね。

遠藤
小説を書かず、ああいう世界を書いたということは、土着性というものとも違いますね。宗教性、とか自然観とか

――宇宙とか

遠藤
そうそう、そうしたものと四つに組んで、詩的な言葉、イメージを巧みに使いながら物語を書いた。賢治は呼吸化し身体化してゆくには一番手ごたえのある作家かもしれませんね。

――近代作家のなかでは

遠藤
ええ。

――いままで賢治の「セロ弾きのゴーシュ」「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」を遠藤演出の舞台で観ましたが、今度はなんなのでしょう。楽しみにしています。今日は長いことありがとうございました。


音と言葉の身体 終り

劇作家・演出家 遠藤啄郎
聞き手       山本 掌
雑誌『月球儀』記載記事より

2011年12月1日木曜日

音と言葉の身体 その5

第五回 インドネシアの舞踊や演劇

遠藤
インドネシアの舞踊や演劇の人達と作品づくりをしたのですが、やはり彼等も我々と似た思いを持っているのを感じました。

――インドネシアで古典は伝承されているんですか。もともとの形は。

遠藤
その時一緒に作品づくりをした人達の多くが子供の頃から、古典舞踊をやってきた方々だったせいもあるのですが、現代の視点で何を表現したらよいのか、悩んでいる感じが強くしました。僕なんかにとっては、インドネシアの古典は自国の古典より魅力的なんですけれどね。

――きっと西洋文化が当然のように入っていて、そこの視点からみるから、ディスカバー・アジアのようになるのかな。

遠藤
僕が自国の古典を学び、その中から方向性を見つけてゆこうとしていた時、アジアの伝統芸能に出会い目からウロコとでもいいますか、自由になれたんです。
自国の古典は自分にとって、どこか、窮屈なものになっていた。そんなこともあって、特に「小栗」には音楽、動き、衣装、仮面などにアジア、特にインドネシアのものを取り入れました。

――ちょっと言葉について話をもどしたいのですが。

遠藤
どうぞ。

――いま言葉を音声化する、身体化するということで話していただいていますが、現代ものとの一番の違い、何だとお考えでしょうか。

遠藤
何が違うか、難しいですね。
私は古典をアレンジして、たとえば「小栗」や「マハーバーラタ」のような作品と現代を描いたオリジナル作品両方を舞台化していますが、どちらかと言うと、演出、脚本とも古典ものより、むずかしい。

――それはなぜでしょうか。さすがに古典は何百年も生きてきて、その言語・言葉そのものにエネルギーがあるからでしょうか。

遠藤
そうですね。それをつかめば、伝わりやすい。観客は古典の教養が特に無くても、潜在意識を揺り動かしてあげれば、共感を得ることが出来ます。私は現代をテーマにしたものと、中世の物語や神話、民話などを題材にしたものと、両方を舞台化してきたのですが、私の場合は昔の物語を作品化したもののほうが、どうも受けがいいようです。

――受けるっていうのは、書いたご自身も手ごたえを感じると言うか。

遠藤
興行的なことです。

――興行的に(笑)。それはそれは。

第六回 賢治の日本語 に続く

劇作家・演出家 遠藤啄郎
聞き手       山本 掌
 雑誌『月球儀』記載記事より

2011年11月30日水曜日

音と言葉の身体 その4

第四回 古典劇、現代劇

遠藤
現代劇の俳優さんも、古典劇を学ぶべきです。どんなシステムで、どんな指導かはありますけど。そして様々な文体と四つに組むレッスンをしないとだめですね。

――そのテキストになるのはどういうものでしょうか。やはり中世の語り物、あるいは能になるのでしょうか。

遠藤
そうですが、様式の語り口が出来上がっているものは避けたほうがいいと思います。
テキストそのものから立ち上げてゆくほうが私はいいという考えです。
たとえば狂言にしろ能にしろ、それをきわめるには何十年もかかってしまいます。現代劇を作ってゆくなかで現代日本語をどう生き生きしたものにするか。その視点に立って古典をあつかうべきでしょう。言葉それは今つくられたものではありません。僕はよく俳優にいうんです。言葉は君よりエラいのだとね。

――困難な事を遠藤さんはやっていますよね。その演劇活動、海外により伝わっているようですが。そろそろ<遠藤メソッド>が出来る(笑)。何が違うんでしょう。

遠藤
日本の演劇界、特に現代劇がもっている価値観の問題ではないでしょうか。別に私は古典をやっているわけじゃありません。要するにわが国の近代演劇や現代劇が観念や心理主義に振り回され、自分達の歴史性、身体性を失ってしまったからでしょう。

――これまでの近代劇・現代劇の観念や心理あるいは文学に比重がかかっていた演劇から模索されて、<遠藤メソッド>の演劇に踏み出していますよね。古典の訓練をしていない俳優さんたちと芝居を作っている。私も何回も拝見した「小栗判官照手姫」、さきほども言いましたが、ほんとうに強烈な印象でした。六百年以上も前の説話が今の私たちにこんなにもいきいきと面白い。

遠藤
そうですね。ですから、私は日本語に身体性を取り戻す作業をやってきたつもりなのです。身振りにしてもアジア的な創作仮面をつくり、レッスンしたり、仮面劇を上演したりしてきました。それがけっこう大変で、新劇やアングラ演劇系の連中からさよならされてしまった感があります。

――ほんとうに開拓民ですね(笑)。古典の人達からの反応はどんなでしょうか。

遠藤
古典をしっかりなさってきた方は受け入れていただけます。たとえば文楽の太夫さん、言葉と本当に葛藤してきた方が「小栗」の舞台を見て、新鮮な面白さを感じていただけました。
ところが中途半端に古典かぶれした人たちは古典と比較して、見るのか批評的で評判が良くありません。

――そうなんですか。遠藤「小栗」は日本の言葉の文芸の大きな流れのなかに位置していると思います。これはある種ルネッサンスですよね。

第五回 インドネシアの舞踊や演劇 に続く

劇作家・演出家 遠藤啄郎
聞き手       山本 掌
雑誌『月球儀』記載記事より 

2011年11月29日火曜日

音と言葉の身体 その3

第三回 呼吸の詰め放し

――日本語のダイナミズムですか。日本語、言葉のバランスはどうなのでしょう。たいへんだろうなぁ。言葉を発する身体、あるいは呼吸について少し話してくださいますか。

遠藤
最近の人達は日常の会話の中でも、語尾まできっちり音にしない習慣がついていて、若い子なんかは語尾を飲んでしまったり、呼吸を放してしまう。ですから何が言いたいのか、はっきりした意志が他者に伝わらない。あいまいにしてしまう。しっかりした呼吸の切りかえができなくなる。
古文でも現代文でもそれは同じだと思います。つまり、言葉や文体にあわせての呼吸の変化にとぼしい。呼吸の詰め放しがわからなくなっている。
そこをしっかりやっていかないと、ただ感情を強く出したり、悲しそうに言うことができても、“言葉の表現”としては、とてもやせたものにしかならない。
近代・現代詩というのは声にするのがむずかしい。しかし朔太郎だとやはりちゃんとそこに呼吸が書かれているように思います。骨格があると言いますが、これはムードで詩を朗読するのとは違い、なんと言いましょうか……。
詩には行間を埋めてゆく、飛躍をしっかりとつかまえ音声化する、呼吸化してゆく。そのことによって、読んでいた時にはわからなかった世界が立ちあがり、語り手の個性をともないながら、生き生きとした世界が伝わってゆく――。
以前、フランスの舞台俳優さんで、マドレーヌ・ルノーさんの舞台を見ました。

――はい、見たことがあります。

遠藤
彼女がベケットの「勝負の終り」だったと思うのですが――間違っているかもしれませんが、彼女の一人芝居で下半身が土の中にうまっていて、おへそから上だけが見え、衣装はたしか、うすいシュミーズのようなのをきていただけでした。私はフランス語はぜんぜんわかりません。ですが、マドレーヌ・ルノー^さんのセリフがまるで次々に様々な花火があがるように飛び出し、薄い衣装のしたで下腹部が動くのが見えみごとだとおもいました。リアリズムでない不条理劇での言葉だからこそ、より身体的な表現が大切なのだと納得したのを覚えています。

――いいまのお話で思い出したんですが、マドレーヌ・ルノーさんのだんな様のジャン・ルイ・バローさんが日本にやって来て、銕仙会で観世三兄弟が元気でやっていた時にワークショップがありました。なかで一番印象深かったのが「Travail la mort」死への向かってゆく道程(死への仕事)、これを呼吸で表す。
能のかたちで、それからバローさんのやりかたで。それが<呼吸>だったんです。能でもフランスの演劇でも呼吸だけで、台詞がひとつもなくても死へ向かってゆく生々しい「生」のありようがはっきりと見えました。
どちらの演劇もある様式のなかで培われて、そこに通底しているものがあるのかと思いました。それが呼吸なのでしょうか。

遠藤
呼吸の詰め放しの展開の中にこそ基本があると思います。

――表現のもと、根源みたいな。
もう見えるんですね、呼吸が。それこそTシャツ姿だったので、筋肉の動きもはっきりとみえます。さきほどのルノーさんのお話のように。呼吸音まで伝わってきました。

遠藤
体の動き、身振りも一緒だと思いますよ。軸があって、中心があって、やはり呼吸が大切で、言葉と身振りをいかにおりあいをつけ、演劇の場合は表現を生みだすかですね。

――いままでのお話で、呼吸や身体、そのささえからの、「言葉のもつ力」、それをとても感じます。新劇に代表される演劇ではどうしても言葉の観念的な、文学的なことで出来ているように思えます。遠藤さんはどう考えているのでしょうか。


劇作家・演出家 遠藤啄郎
聞き手       山本 掌
雑誌『月球儀』記載記事より

第四回 古典劇、現代劇 に続く

2011年11月28日月曜日

音と言葉の身体 その2

古典を朗唱する

――遠藤さんは中世説話「小栗」から中世の言葉をそのまま活かして「小栗判官照手姫」を創られました。初めて観たときはカルチャーショックでした。芝居としてもですが、言葉の強さに圧倒されたのかな……中世の言葉、それを発語する俳優にとってはどうなんでしょうか。

遠藤
ええ、中世の物語 説教節「小栗」を舞台化して上演しました。
古典の劇、歌舞伎、能、狂言、文楽などでは中世の言葉や江戸時代の言葉をそのまま使っていまも上演されています。
しかし現代の俳優がやるときに歌舞伎や狂言の言い回し、調子をまねしたからといって、うまくゆくわけではありません。
私達が中世の語り物の文体を使ってやるときには、当然ですがまず台本の解釈から入り、それを現代の感覚、認識の中で再構成してゆく作業が必要なわけです。そして新しい語り口を作ってゆく。たいへんな作業ですがね。
現代の芝居の場合、ほとんど日常会話が主で、感情表現、心理表現が主ですから、たとえば説教節のような叙事詩的な文体は、なかなか現代の俳優さんは苦手なのです。ですから海外のもの、ギリシャ劇やシェイクスピアーを上演する時、狂言や歌舞伎の俳優さんのほうがうまくいったりする。
しかしなんとか中世の持っていた日本語のダイナミズムを取りもどせないかと考えます。
これはロシアの演劇大学に留学した人に聞いたのですが、留学生も自国の古典を朗唱する訓練がボイストレーニングのなかに入っているそうです。ですから日本人でしたら原文でたとえば「梁塵秘抄」とか「平家」を読むんだそうです。様式化されたものをまねして語るのではなく、自分で理解して語る。
日本の演劇学校では、やっていませんね。
言葉の身体性、歴史性を自覚してゆくには、どこの国や民族でも大切だと思うのですが。

――中世は今から六百年以上ですか。遠藤さんはそれを意図して、選んで戯曲にしていますね。それを実際にせりふとして音声化、身体化をする俳優さんにとってはどうなんでしょうか。

遠藤
まず戸惑じゃないでしょうか。だからたとえば「平家物語」を読んでみなさいといっても、古典劇をやってきた人ならば言葉の意味だけでなく、言葉の調子・リズムがすぐにとれますけれど、実はその調子が問題なんであって、それは何々調、たとえば歌舞伎調、狂言調になる。そうじゃなくて現代の自分達の身体を通して読みなおしてゆく作業の中で、リアリティが生まれ、役者個人個人のなかにも生まれる。そして新たな説得力が出てくる。そしてそれは現代文を使う場合にも、日本語のダイナミズムをとりもどすことが可能になるのではないでしょうか。

呼吸の詰め放し に続く

劇作家・演出家 遠藤啄郎
聞き手       山本 掌
雑誌『月球儀』記載記事より

2011年11月27日日曜日

音と言葉の身体 その1

劇作家・演出家 遠藤啄郎
聞き手       山本 掌
雑誌『月球儀』記載記事より 

第一回 日本語を発する

――最初にこれまで演出された舞台の経験から「音・声」と「言葉」について感じられたことをお話いただけますか。

遠藤啄郎(以下遠藤)
言葉って意味だけのものじゃありませんよね。音、声、表現の中でどのように日本語の音を発するか、呼吸をいかに使うかが基本なわけです。
海外公演では日本語でやり、字幕スーパーを出します。イヤホンで聞きながら見るというのがありますが、私はどうも好きじゃない。変に芝居がかってやられると、邪魔になります。しかし字幕スーパーも文字が多すぎると見切れないし、芝居の方もよく観ることができなくなる。ですからダイジェストします。セリフを全部訳すのではなく、ポイントだけを訳したり、時には少々邪道ですが、場面のポイントを解説して出したりします。そしてセリフの音や、言いまわしをよく聞いてもらえるよう心がけるんです。
  時たま、日本で上演するときより海外での公演が良くなる時がありますよ。

――それはどうして。

遠藤
日本語のわからないお客さんの前で日本語で演ずるわけですから、なんとか伝えたいと思う意志が強くはたらくからだと思います。それが俳優の気持ちに現れ、身ぶりも含めて、丁寧になり「いいな」と思うときがあるのです。
自国で上演するにも、それくらいやればと思うのですが、なかなかそうはゆかないようです。
最近の芝居を見ると、あまり日本語のことを重要に考えなくなっていて、見せることや笑わせることばかり表面に出て、言葉のダイナミズムを感じる舞台が少なくなっていますね。

――それは感情をこめたり、役作りどうするかとなってしまって、日本語をどう発するかという観点がないからでしょうか。

遠藤
身ぶりにしても、言葉にしても、それは脚本の文体によって違ってきます。かつては歌舞伎や浪花節、義太夫節、講談などの名調子を一般の人々が暗記し、口づさんだりしたものでしょう。今はほとんど聞かなくなりました。ヨーロッパなどでもたとえばシェイクスピアーのセリフ、名調子を、会話やスピーチの中で使ったりするわけです。
現代劇ではその名調子を失ってしまいましたね。
演説でもそうです。最近の例で言うとオバマさんの演説と麻生さんの演説を聞き比べても、その差はあきらかですよ。
テレビや映画の吹き替えはどうも好きではありません。なにか一番大切なものが失われるような気がします。特に外国の名優の吹き替えは残念に思います。
声優が日本語に置きかえることによって、演技の一番大切なものが失われてしまう気がします。

――あ、その「置きかえ」という言葉ですが、知らない言語であっても、言葉がわからなくても「伝える力」がある、ということでしょうか。

遠藤
ですから海外の芝居でも、良い芝居の場合は、一つ一つの意味がわからなくても、内容が伝わってくる。面白いものは笑えたりする。外国に行って観た芝居でも何度かそうした体験ばあります。
舞台での言葉というのは、最後は音やリズムにたどりつくと、僕は考えて芝居を作っています。それが言葉を身体化してゆくことです。

――言葉の身体化ですか。

第二回 古典を朗唱する に続く