2011年8月5日金曜日

再生作業としての演劇行為 その2

第二回~仮面とは

 では仮面とはなんなのでしょう。
 仮面は人類が文明を持ったときからあったと言われ、非常に古くから使われてきました。
 では、どのような理由で人は仮面を作り、付け、何を表現しようとしたのでしょうか。
 古くは宗教的な儀式や祭りに使われたのが始めだと思いますが、たとえばアフリカなどでは裁判にも使われたようです。ひとつは共同体の中で「誰かが鶏を盗んだ」とすると、その罪を問わなければならない。こういうことが起きてきたときに、長老が仮面をつけて、村の人たちは輪になって踊りはじめる。するとあるところで長老が神がかりして――神様が自分にのりうつって――ばったりと倒れるわけです。すると仮面についている角の先が触れるわけですが、その触れた人が犯人だということになる。これはぜんぜん偶然ではなくて、長老は村のことをよく知っています。それではなぜそのようなことをしたのかというと、この裁判の結果は神が決めたものだ、神が見ていたものだという考え方をとっていたからだと思います。
 それから日本にも古い行事の中で「なまはげ」というものがあります。東北の方はよくご存知かと思います。これはお正月ですか、近所のおじさんが仮面をつけて出てきて「勉強しろ!」「親の言うことを聞け!」と言うわけですね。すると子供はわんわん泣いて言うことを聞く。おじさんがそのまま出てきたのでは言うことを聞かないけれども、仮面をつけると子供はそれに恐怖をおぼえて言うことを聞く。つけている方もその気になる。そういう両面があるわけです。ものに変身する、扮するという一番端的な手法としては、仮面というものが便利なわけです。仮面をつけると、一種の神がかり状態に近付いていくということがあるわけですね。
 また演劇的なものとしては、たとえばギリシャ劇などでは神々を描く。ギリシャには野外劇場があって、王様から一般市民までがそこに集まって、ギリシャ神話の世界、ギリシャ神話の中の物語を、仮面をつけてコロスが中心になって――コロスというのはコーラスですね――、人数が決められていて仮面を換えながらされていたようです。そういうのが、演劇の芸術として形になったものとしては最初だったわけです。
 そのほかにも、世界にはいろいろな発祥があります。
 日本にも能というものが生まれる前には、神楽だとか田楽といったものがある。神楽も鬼の面をつけ、ヤマトタケルの神様が仮面をつけて出てくる。そういったものが今でも行われているわけです。昔の共同体では人々のいとなみの中で仮面というものは使われていた。こうしてみますと、仮面を使った演劇的表現の方が古く、今私達が演劇と呼んでいるもの、心理劇などは新しいものであり、演劇のルーツは仮面劇だと言えます。
 しかし近代社会においては、舞台に神々や魔もの、動物や植物などが登場する、祝祭性の強い演劇はあまり重視されなくなり、人間中心の演劇が主流となり、仮面を使用するものは少なくなってきました。たとえば、ホームドラマ「渡る世間は鬼ばかり」を仮面をつけてやるわけにはゆきません。それはチェーホフ作品についてもしかりです。
 しかし一方では、我が国で能、狂言や神楽が今でも上演されていますように、主にアジア各地、インドやインドネシア、中国、韓国などでも、仮面劇や仮面舞踊は、昔ほど盛んだとは言えませんが、上演されています。
 では仮面を使うことでどんな面白さや利点があるのでしょうか。まず顔につけただけで、一瞬にして神や魔物、動物になれる。それは観客だけではなく、演じる人間もその気になれるのです。顔を隠す行為は、たとえばサングラスをかけたり化粧をすることで、私達は気分が変り、大胆になったりします。
 そのように仮面は変身のためのより便利な小道具であり、日常的ではないもの、見たこともないような世界を表現することに非常に適している。ある人物なり、神や精霊との一体感を、演ずる側も、見る側も体験できるわけです。そして、そには見えないものを見ることができ、優れた仮面と優れた演者によって、神話や童話がリアリティーを持って観る人に迫ってくるのです。俳優の個人が消え、物語世界を出現させることが可能になるのです。
 しかし近代劇において、仮面を使用することはほとんど無くなってしまいました。さっきも申し上げたようにチェーホフでは仮面が必要ではなくなったのです。近代劇は仮面を排除する方向に行ったわけです。それは人間中心のドラマが主流となり、俳優の表現する方向も大きく変ったのです。
 しかし戦後になり、ヨーロッパを中心とした演劇の中で再び仮面を見直す動きが生まれてきました。そして俳優レッスンの中でも仮面が使われるようになりました。
 では、なぜ仮面をつけての表現を見直すようになったのでしょうか。
 それはやはり「近代」社会、近代における人間観や自然を見直そうとする意識の中から生まれてきたのだと思います。科学の発達、物質文明、一種の合理主義――そういうものの中で、人間が本来持っていた、たとえば呪術性であったり、神秘性であったり、それから身体性をもう一度取り戻す、からだに埋め込まれた潜在性とか連続性といったものが、演劇などでも問われるようになってきたわけです。
 最近ある建築家のこんな言葉を読みました。バウハウス――これは一九一九年、建築家のグロビウスが中心となってドイツに生まれた芸術学校で、機械技術と芸術の総合を理想とし、その教授の中にはポール・クレーやカンディンスキーなどがいて、近代芸術の展開に大きな影響を与えたのですが――そのバウハウスの運動の中で欠けていたものは、自然と歴史であったと言っております。演劇において自然や歴史、物語性を取り戻す、そのために身体性を見直す、そんな気運が強くなり、我が国の能やインドの古典芸能、インドネシアの仮面劇、イタリアにあったコメディア・デラルテ(ギリシャ劇から生まれた仮面喜劇)などが見直されるようになったのです。


第三回~仮面を私はなぜ使い始めたか――身体性の回復――
に続く

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