2011年8月7日日曜日

再生作業としての演劇行為 その3

第三回~仮面を私はなぜ使い始めたか――身体性の回復――

 普通の俳優さんは仮面をつけることをあまり好みません。それに仮面をつけてしまっては、俳優さんとして顔が売れませんからね。まあ、それは冗談として、戦後しばらくして私が演劇にたずさわるようになったのは、アングラ演劇と呼ばれるものが盛んになった頃です。一九六〇年から七〇年、その頃若い俳優達、その多くは大学生や大学出たての、何も訓練など受けたことのない若者達でした。言葉だけでなく、からだを使って表現することもそれなりに訓練が必要ですが、そう簡単ではありません。その頃の演劇は表現技術の訓練より、運動としての演劇、新劇へのアンチテーゼとしての演劇という考えが強かった。たとえば「黒テント」――今でも活動を続けている、アングラ劇を代表する劇団ですが――その劇団の入団のためのオーディションでは、「君のセクトは?」「はい、僕は革マルです」などという言葉が行き交った時代です。そうした若者達にどうやって身体表現能力を持たせることが出来るか、その中で考えついたのが仮面でした。そしてその基礎となったのが、パリーにあったルコック演劇研究所における、ルコック・システムで行われていた仮面のレッスンでした。そこで使われていたコメディア・デラルテの道化、仮面を使った道化の表現のためのメソッドでした。幸い、ルコックの研究所に留学して帰国した人もいて、その人達と一緒に仮面のレッスンをするようになりました。これが最初に、私が仮面を使い始めたきっかけとなったのです。
 たとえば中性面という、キャラクターのないものとして作られた仮面をつけ、焔となる――体内に火種が生まれ、少しずつ体全体に焔がひろがり、あたりまで焼きつくし、燃え尽きるまでを表現するのですが、人によってはトランスしてしまうところまで行ってしまう。まあそれだけ仮面をつけることにより、解放される訳です。しかしトランスしてしまっては表現にならなくなってしまうので、その一歩手前で止まり、全身を使って焔を表します。こうした中で、それまでに自分を縛っていたもの、習慣や拘束されてきたものから解放されるレッスンをしたわけです。
 レッスンと言いますと、何か決まったやり方を訓練して覚えてゆくことかと考えがちですが、このレッスンは、それまでその人に染みついてしまっている教育や既成概念を取り払うこと、そして身体表現の幅や、新鮮さを発見することに、仮面は役立ったのです。しかしこれだけでは仮面を使って具体的な作品を表現するには至りません。一度解放したところから、表現することへの道を探ってゆくのです。この表現を具体化してゆく中で、私達の歴史性や自然観を見つけ、私達なりの現代仮面劇を発見してゆくのです。
 そこで、仮面の造形性、物語の選択などが重要になり、その結果、自分でも仮面を作ったり、アジアの仮面劇の勉強も必要になってゆきました。


第四回~様々な仮面  に続く

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