第8回 船劇場での実験――自らを再生する作業
いかに身体性を取り戻すかという理由で仮面を使い始め、古い物語を読み直し、今に再生させる――こうした作業を私は続けてきました。そして演劇は空間表現であり、稽古場、劇場が、その作品の内容と大きくかかわりを持ちます。その一つの実験として、私達は船の劇場で稽古し、公演を続けてきました。船という場所だからこそ、「小栗」のような作品が作れたのだと思います。近代劇場は確かに便利ですし、観客も見やすいとは思います。そういう意味では非常に合理的にできています。擬似空間、擬似の闇を作り出し、光をあてて明るくしたり暗くしたり、夜になったりするといったことでは非常に発達してきています。でも、場が持っている歴史性とか、一つの不思議さとか、力といったものは、もう近代劇場にはないのです。場としての力はありません。
木造船の中の劇場を胎内空間だと言った人がいます。そこは旅立ちなどいろいろなイメージを私達は持つことができ、日常から離れ、劇を体験するにはとても理想的な場所です。しかし現在は、行政から係留の許可がもらえず、劇場としては機能していませんが、稽古場として使っています。
そこで何をしたかったかというと、それはタイトルにもありますように「物語を再生する」こと。この物語を再生するということはどういうことなのか――これは自らが再生する作業であったと、私は思っています。自分たちがどのように演劇を通じて再生するのか。演劇をどこかに売るとか、演劇によってスターを作るとかといったことにはほとんど無縁の仕事なのですが、その中で見る観客、それから私たち自身が、物語の中で仮面を借りて再生をしていくという、一つの実験でもあるし、その過程でもあると考えて、自分なりに作品を作ってきました。
身体の再生の為の仮面、そして物語、船劇場――これが私が考え、実践してきた私達の演劇活動です。では本日の話はここで終わります。
こちらにあります仮面を、ぜひ手にとって見、顔につけてみて下さい。
鏡も二つ用意してあります。
ぜひ仮面をつけた自分を見て下さい。
(二〇〇五・四・一五 北方文化フォーラムより)
再生作業としての演劇行為(終)
2011年11月14日月曜日
2011年11月13日日曜日
再生作業としての演劇行為 その7
第7回 仮面劇『小栗判官照手姫』――死と再生の物語
この物語をもとにして作られたのが仮面劇『小栗判官照手姫』です。
『小栗』を作るにあたり、仮面だけでなく、衣装や音楽につていてもいろいろな工夫をしました。衣装では、日本の時代劇なのですが、和服を使うことを避けました。なぜかと言いますと、和服の場合、身体表現に限界があります。たとえば女性が和服では足を思いっきり上げられません。だからと言ってズボンやタイツ姿では様になりません。どこかに我が国の伝統性を感じさせ、豪華さや優雅さを出すために、時間をかけて集めておいたアンティックの丸帯や布などを使い、シルエットは東南アジア、たとえばジャワ風やバリ島風のスタイルを取り入れたりしました。
音楽も邦楽器などの使用を避け、アジア各地の打楽器や笛、弦楽器などと、創作楽器、竹製のマリンバやフライパンで作った楽器などを使い、どこか特定の民族や地域が出ないように心がけました。
ちなみにセリフ、言葉はできるだけ原文を生かすように台本を作りました。小栗の言葉は、もともと語るための文体として書かれたものですから、その力強い日本語の語感を失わないように心掛けたのです。だからと言って、歌舞伎調でもなく、能や狂言風に表現したわけでもありません。今の私達でも演じられるセリフづくりを行いました。このような作業を積み重ねて舞台化したため、その準備や稽古は、そうですね。はっきり覚えてはいませんが、五年ほどかかったかもしれません。
このお話はどこの民族にも残る死と再生の物語であり、男が一人前の人間として成人する、その支えとなった照手姫の物語としても読み取ることができます。また、熊野は日本民族にとって長い間聖地としてあがめられた場所であり、餓鬼はハンセン氏病、ライ者をイメージすることができます。
この芝居をイギリスで上演した時、或る評論家が「この物語は、戦の男神と愛の女神の物語であり、最後に愛の女神が勝利する」と説明していました。
私にとってこの物語は、仮面劇にするにはまたとない題材であり、再生としての演劇にはうってつけの題材でした。
この『小栗』を一番最近海外で公演したのは二〇〇三年、ルーマニア、そしてモルドバの国立劇場でした。その時にモルドバの『文化と芸術』という新聞に掲載された、女性の記者でジュリアナ・アルマッシュという方が書いたものを紹介させていただきます。
「今回のヴィジェーヌ・イヨネスコ演劇祭(世界的に有名な前衛演劇作家の名前をつけた演劇祭)の中で私が特に観たかったものは日本の劇団の舞台であった。なぜならば何か新しいものを見せてくれる、ヨーロッパの舞台とは違うものが観られるからである。私の考えは間違ってはいなかった。本年五月二八日、キシノウ(モルドヴァの首都)の国立劇場の舞台には、神話と現実、混沌と秩序、暴力と優しさ、死と生命、魂とその物質的反応が調和を壊すことなく、偉大な日本の神秘とともにハーモニーを維持して共存するという、オリジナルな舞台が展開された。
この『小栗判官照手姫』は、“横浜ボートシアター”によって演じられた。この劇団は横浜港に浮ぶボートで(当初は木製、その後鋼鉄製)活動を展開しており、その名がついている。台本のテーマは古い物語をベースにしているが、演出家遠藤啄郎の優れた才能によってさまざまな神話的要素を取り入れている。
卓越した技能は仮面(これも同じく遠藤啄郎の手になる)にも示されているが、これは日本の伝統演劇には欠かせないものである。この伝統演劇は、われわれヨーロッパ人にはモダンでしかないのだが。こうして『小栗』は三つの姿を現す。生・死・復活である。さらに、おそらく演出家としては、少人数の俳優でこれだけ大きな舞台を演ずることを可能にする節約の精神もあったのではないか。
舞台の上に映し出されたルーマニア語のテキストのおかげで、疑問に思う点の細部まで理解できた。物語は、各部分ともに登場人物の一人によって語られる形をとっている。物語はすばらしい語りの行為によって、あたかも存在するように私は感じることができた。おそらく他のすべての人もそう感じたであろう。これは、あたかも「まず初めに語りありき」という思想、あるいはモダンな表現ではデカルトの「私は語っているのだから、存在する(我、思う故に我有り)」という考えにいたる。この日本的範例は、(ポスト)モダン哲学の理論が完全に押しつぶされてしまうものであり、われわれに再び深遠なメッセージの解読を求めている。この意味でこの舞台の本質は、その主題にあるのではなく「いかに語られているか」、あるいは「いかに語られるか」にあると思われるのである。すなわち『小栗判官照手姫』の舞台では、完全にすべての要素が一つの言語に記号化されている(ほとんどテキストの必要がないほど)、照明、舞台装置、舞、音楽(日本の伝統芸術に適合させた特別な楽器)もそうであり、これは必ずしも解読を要求しない、理解されるものである。この言語は、日本の文字同様にただわれわれを魅了するばかりである。マジック・ショーのような雰囲気の中で、現実にわずかに傾斜しているような、あるいはその反対のような感覚がする。ここでは観客は、ヨーロッパの演出家によって劇化されたほとんどの舞台で起こるような、疑似体験は求められないように思う。あたかも現実の檻から解き放たれた心地よい快感が最後に残る、旅に連れ出されたようである。もちろんすぐにもとの場所に戻ることはわかっているものの(観客も製作者も同様に)、しかし、数時間でも昔の神話の世界に浸ることができたこと、そしてこの先別の世界もあり得るのだと知りつつ、囚われの身で居続けることに耐えることは、はるかに容易なものとなる。
日本の舞台は、矛盾の共存を完璧なまでに印象付ける。たとえば暴力は、武道によって表現されるのだが、われわれには優しさ、柔軟性に映る。また恐ろしい事態が展開するのだが、それは悲劇というよりも明るさをもっているのである。
『小栗判官照手姫』は、横浜ボートシアターによって一九八二年に初演されたが、演出家の遠藤啄郎は、その後も彫刻のように常により良いものを追及してきた。当然ながら、この努力は多くの賞によって報われてきた。また、エジンバラ、ニューヨーク、インドネシア、香港、シンガポールなどの国際演劇・芸術祭にも招待されている。「ボートシアター」は日本の伝統とギリシャ、インド、中国などのあらゆる神話の遺産を取り入れて舞台化した数少ない劇団の一つである。過去と歴史的想像の復興は、このすばらしい俳優たちの集団の成功をより大きなものとすることであろう。文化の再構築、まず何よりも古代の再発見を試みているヨーロッパでは、特にそうであろう。演出家の言葉によれば、演劇は人間との原始的なコミュニケーションの形態であるのだが、ヴィジェーヌ・イヨネスコ演劇祭で今後も日本の演劇と生で再び出会えるまで、少なくともこの形態を維持することを望んで止まない。」
もう一つ、やはりモルドバからメールで送られてきたファンレターを紹介します。
アブラモヴァラ氏よりのEメール 2003・5・29
「親愛なる友達
私は今、この手紙を遠いモルドバから書いています。しかし、昨日あなた方の劇団の俳優達のすばらしい演技を観てから、もはや遠い国ではなくなったような気がしています。あなた方の昨晩の公演に、心から「有難うございました」と申し上げたいと思います。それは私自身の内なる世界を覆すものでした。実際日本の文化は世界中で最も興味深く、ユニークな文化だと思っておりました。しかし(夕べの公演を観るまでは)日本人があのように素直で、美しく、尊厳を持っている人達だとは思っておりませんでした。
昨日の演劇は『小栗判官照手姫』というものでした。才能豊かな俳優達のすばらしい演技、音楽家や衣装デザイナーの素晴らしい仕事、そしてこの仮面劇の全体を創られたと伺っている遠藤啄郎氏の力量に感嘆いたしました。
この演劇に関っておられる全ての素晴らしい方々に感謝します。本当に見事な公演でした。この広い世界で私達を結びつけてくれたこの公演を、私は生涯忘れることはないでしょう。過去を尊重し、現在を賞賛し、そして未来に思いをはせ、そしてその全てをあらゆる人と分かち合いたいと思います。
あなた方が昨晩くださった素晴らしい時に心から感謝しています。チラシの裏にEメールアドレスを見つけて、黙っていることができませんでした。本当に素晴らしかった、有難う!」
第8回 船劇場での実験――自らを再生する作業 に続く
この物語をもとにして作られたのが仮面劇『小栗判官照手姫』です。
『小栗』を作るにあたり、仮面だけでなく、衣装や音楽につていてもいろいろな工夫をしました。衣装では、日本の時代劇なのですが、和服を使うことを避けました。なぜかと言いますと、和服の場合、身体表現に限界があります。たとえば女性が和服では足を思いっきり上げられません。だからと言ってズボンやタイツ姿では様になりません。どこかに我が国の伝統性を感じさせ、豪華さや優雅さを出すために、時間をかけて集めておいたアンティックの丸帯や布などを使い、シルエットは東南アジア、たとえばジャワ風やバリ島風のスタイルを取り入れたりしました。
音楽も邦楽器などの使用を避け、アジア各地の打楽器や笛、弦楽器などと、創作楽器、竹製のマリンバやフライパンで作った楽器などを使い、どこか特定の民族や地域が出ないように心がけました。
ちなみにセリフ、言葉はできるだけ原文を生かすように台本を作りました。小栗の言葉は、もともと語るための文体として書かれたものですから、その力強い日本語の語感を失わないように心掛けたのです。だからと言って、歌舞伎調でもなく、能や狂言風に表現したわけでもありません。今の私達でも演じられるセリフづくりを行いました。このような作業を積み重ねて舞台化したため、その準備や稽古は、そうですね。はっきり覚えてはいませんが、五年ほどかかったかもしれません。
このお話はどこの民族にも残る死と再生の物語であり、男が一人前の人間として成人する、その支えとなった照手姫の物語としても読み取ることができます。また、熊野は日本民族にとって長い間聖地としてあがめられた場所であり、餓鬼はハンセン氏病、ライ者をイメージすることができます。
この芝居をイギリスで上演した時、或る評論家が「この物語は、戦の男神と愛の女神の物語であり、最後に愛の女神が勝利する」と説明していました。
私にとってこの物語は、仮面劇にするにはまたとない題材であり、再生としての演劇にはうってつけの題材でした。
この『小栗』を一番最近海外で公演したのは二〇〇三年、ルーマニア、そしてモルドバの国立劇場でした。その時にモルドバの『文化と芸術』という新聞に掲載された、女性の記者でジュリアナ・アルマッシュという方が書いたものを紹介させていただきます。
「今回のヴィジェーヌ・イヨネスコ演劇祭(世界的に有名な前衛演劇作家の名前をつけた演劇祭)の中で私が特に観たかったものは日本の劇団の舞台であった。なぜならば何か新しいものを見せてくれる、ヨーロッパの舞台とは違うものが観られるからである。私の考えは間違ってはいなかった。本年五月二八日、キシノウ(モルドヴァの首都)の国立劇場の舞台には、神話と現実、混沌と秩序、暴力と優しさ、死と生命、魂とその物質的反応が調和を壊すことなく、偉大な日本の神秘とともにハーモニーを維持して共存するという、オリジナルな舞台が展開された。
この『小栗判官照手姫』は、“横浜ボートシアター”によって演じられた。この劇団は横浜港に浮ぶボートで(当初は木製、その後鋼鉄製)活動を展開しており、その名がついている。台本のテーマは古い物語をベースにしているが、演出家遠藤啄郎の優れた才能によってさまざまな神話的要素を取り入れている。
卓越した技能は仮面(これも同じく遠藤啄郎の手になる)にも示されているが、これは日本の伝統演劇には欠かせないものである。この伝統演劇は、われわれヨーロッパ人にはモダンでしかないのだが。こうして『小栗』は三つの姿を現す。生・死・復活である。さらに、おそらく演出家としては、少人数の俳優でこれだけ大きな舞台を演ずることを可能にする節約の精神もあったのではないか。
舞台の上に映し出されたルーマニア語のテキストのおかげで、疑問に思う点の細部まで理解できた。物語は、各部分ともに登場人物の一人によって語られる形をとっている。物語はすばらしい語りの行為によって、あたかも存在するように私は感じることができた。おそらく他のすべての人もそう感じたであろう。これは、あたかも「まず初めに語りありき」という思想、あるいはモダンな表現ではデカルトの「私は語っているのだから、存在する(我、思う故に我有り)」という考えにいたる。この日本的範例は、(ポスト)モダン哲学の理論が完全に押しつぶされてしまうものであり、われわれに再び深遠なメッセージの解読を求めている。この意味でこの舞台の本質は、その主題にあるのではなく「いかに語られているか」、あるいは「いかに語られるか」にあると思われるのである。すなわち『小栗判官照手姫』の舞台では、完全にすべての要素が一つの言語に記号化されている(ほとんどテキストの必要がないほど)、照明、舞台装置、舞、音楽(日本の伝統芸術に適合させた特別な楽器)もそうであり、これは必ずしも解読を要求しない、理解されるものである。この言語は、日本の文字同様にただわれわれを魅了するばかりである。マジック・ショーのような雰囲気の中で、現実にわずかに傾斜しているような、あるいはその反対のような感覚がする。ここでは観客は、ヨーロッパの演出家によって劇化されたほとんどの舞台で起こるような、疑似体験は求められないように思う。あたかも現実の檻から解き放たれた心地よい快感が最後に残る、旅に連れ出されたようである。もちろんすぐにもとの場所に戻ることはわかっているものの(観客も製作者も同様に)、しかし、数時間でも昔の神話の世界に浸ることができたこと、そしてこの先別の世界もあり得るのだと知りつつ、囚われの身で居続けることに耐えることは、はるかに容易なものとなる。
日本の舞台は、矛盾の共存を完璧なまでに印象付ける。たとえば暴力は、武道によって表現されるのだが、われわれには優しさ、柔軟性に映る。また恐ろしい事態が展開するのだが、それは悲劇というよりも明るさをもっているのである。
『小栗判官照手姫』は、横浜ボートシアターによって一九八二年に初演されたが、演出家の遠藤啄郎は、その後も彫刻のように常により良いものを追及してきた。当然ながら、この努力は多くの賞によって報われてきた。また、エジンバラ、ニューヨーク、インドネシア、香港、シンガポールなどの国際演劇・芸術祭にも招待されている。「ボートシアター」は日本の伝統とギリシャ、インド、中国などのあらゆる神話の遺産を取り入れて舞台化した数少ない劇団の一つである。過去と歴史的想像の復興は、このすばらしい俳優たちの集団の成功をより大きなものとすることであろう。文化の再構築、まず何よりも古代の再発見を試みているヨーロッパでは、特にそうであろう。演出家の言葉によれば、演劇は人間との原始的なコミュニケーションの形態であるのだが、ヴィジェーヌ・イヨネスコ演劇祭で今後も日本の演劇と生で再び出会えるまで、少なくともこの形態を維持することを望んで止まない。」
もう一つ、やはりモルドバからメールで送られてきたファンレターを紹介します。
アブラモヴァラ氏よりのEメール 2003・5・29
「親愛なる友達
私は今、この手紙を遠いモルドバから書いています。しかし、昨日あなた方の劇団の俳優達のすばらしい演技を観てから、もはや遠い国ではなくなったような気がしています。あなた方の昨晩の公演に、心から「有難うございました」と申し上げたいと思います。それは私自身の内なる世界を覆すものでした。実際日本の文化は世界中で最も興味深く、ユニークな文化だと思っておりました。しかし(夕べの公演を観るまでは)日本人があのように素直で、美しく、尊厳を持っている人達だとは思っておりませんでした。
昨日の演劇は『小栗判官照手姫』というものでした。才能豊かな俳優達のすばらしい演技、音楽家や衣装デザイナーの素晴らしい仕事、そしてこの仮面劇の全体を創られたと伺っている遠藤啄郎氏の力量に感嘆いたしました。
この演劇に関っておられる全ての素晴らしい方々に感謝します。本当に見事な公演でした。この広い世界で私達を結びつけてくれたこの公演を、私は生涯忘れることはないでしょう。過去を尊重し、現在を賞賛し、そして未来に思いをはせ、そしてその全てをあらゆる人と分かち合いたいと思います。
あなた方が昨晩くださった素晴らしい時に心から感謝しています。チラシの裏にEメールアドレスを見つけて、黙っていることができませんでした。本当に素晴らしかった、有難う!」
第8回 船劇場での実験――自らを再生する作業 に続く
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再生作業としての演劇行為
2011年11月12日土曜日
再生作業としての演劇行為 その6
第6回 仮面劇「小栗判官照手姫」――死と再生の物語 その1
どんな題材、脚本でも仮面劇になるとは限りません。ですから何を上演するか、その作品選びは難しいです。その中でこの二〇年間ほど再演を重ね、日本各地だけでなく海外、イギリス、アメリカ、東欧、香港、シンガポールなどでも上演した「小栗判官照手姫」についてお話します。
「小栗」の物語について、御存知の方もいらっしゃるかと思いますが、この物語は鎌倉時代末期に生まれ、それからずっと説教節として語り伝えられてきました。江戸時代に入ってから歌舞伎としても上演されました。しかしもともとは、平家物語などと同じように語りものとして生まれたのです。説教節といいますのは、お坊さんが信者に仏教説話などを語って聞かせたことから始まったもので、もともとが文字で読むのではなく、耳から聞く、語るために生まれた口承文学の一つです。
こうした芸能は我が国だけではなく世界各地にあり、特にアジアには「語り」の芸能がいろいろ残っています。最近、我が国では、文学作品を題材にした「朗読」や「語り」がたいへん盛んになり、たくさんのグループがあります。
ではここで、小栗の物語について簡単にそのストーリーをお話しましょう。
小栗は京都で大納言という位の高い家の一人息子として生まれ、たいへんに頭も良く、色男で、武芸にも秀でた若者に育ちます。しかし自由奔放な性格で、奥さんを七十二人も追い出し、京都のみぞろが池に住む大蛇の化身した美しい娘とねんごろになり、とうとう父親の怒りをかい、関東に追放されてしまう。しかし関東に来ても人気があり、多くの家臣が集まってきます、だがなかなか気に入った奥さんとは出会えないでいます。
すると旅の商人に、相模の国、今でいいますと八王子のあたりなのですが、その一帯を治めていた横山家に、照手姫という聡明で美しい娘がいると教えられ、照手の父親の許しももらわずに略奪結婚をしてしまう。横山一族はかんかんに怒って小栗を亡き者にしようと、騙して人喰い馬の鬼鹿毛に食べさせようとしますが、小栗は見事に乗りこなしてしまう。では次の手と考えた横山は、小栗とその家来達十人共々、毒の酒を騙して飲ませ、殺してしまいます。
しかし、勘当されたとはいえ、大納言の息子ですから、うっかりすれば天皇からおとがめもあるかもしれぬと、娘の照手姫も同罪とし、相模川に沈めてしまおうとするのですが、沈めることを命ぜられた家来が照手に同情して、殺さずに船に乗せ、流してしまいます。
照手は親切な漁師の親方に助けられるのですが、女房に人買いに売られてしまいます。そして照手は人買いの手から手に売られ、今でいう岐阜県大垣の近く、青墓になった大きな遊女屋で、遊女達に仕える下の水仕として働いています。
一方小栗は、家来共々死んで地獄に落ち、エンマ大王の前に連れ出されるのですが、家来達のたっての願いにより、再びこの世にもどされることになります。そして口もきけず、見ることも歩くこともできない、見るからに恐ろしい餓鬼の姿となり、墓を割ってこの世に戻ってきますが、エンマの手紙がその首にかけられ、「この者を熊野の湯の峰まで運び、その薬の湯につかれば元の小栗にもどれる」、と書いてあります。そのエンマの手紙を見た藤沢のお上人――時宗、一遍上人の起こした宗派で、現在も神奈川県の藤沢に遊行寺という時宗の大本山があり、そこには照手や小栗、鬼鹿毛の墓がありますが――そのお上人は餓鬼の姿となった小栗を土車――今でいいますと車イスでしょうか――そこに座らせ、「一引き引いたは千僧供養、二引き引いたは万僧供養」と唱えながら、熊野に向かって引き出します。小栗が殺されたのは神奈川ですから、熊野、和歌山までその長い道のりを、いろいろな人々の手によって引かれてゆきます。「一引き引いたは千僧供養」と言いますのは、土車を引いた人達の無くなった親、兄弟、子供、妻、友人などの霊のため、この土車を引けば千人の僧を集めて供養するよりも、もっと供養になるという意味です。
餓鬼の姿となった小栗を乗せた土車が、照手の働いている青墓の遊女屋の前で止まっているのを見つけた照手は、死んだ夫の小栗や十人の家来達の為にその車を引くことを決心し、主人に願い出て、五日間だけ引くことを許されます。照手は笹の葉に垂をつけ、顔に油煙の墨を塗り、まるで狂人のような姿となり、熊野に向けて引いてゆき、主人と約束したとおり、五日目に青墓まで帰るのですが、いよいよ別れの夜は、夫の小栗と知らずにグロテスクな姿の餓鬼に添い寝し、涙ながらに別れを惜しみます。この物語の中でも一番の聞き所、見所になっている場面です。
小栗の乗った土車は、道行く善男善女の手から手に引いてゆかれ、険しい山を越え、熊野の湯の峰の湯につかり、元の姿にもどります。その後、小栗は勘当された両親にも再会し、照手ともめでたく再会を果たし、末永く共に生きた。簡単に言いますとこうした物語です。
第7回 仮面劇「小栗判官照手姫」――死と再生の物語 その2 に続く
どんな題材、脚本でも仮面劇になるとは限りません。ですから何を上演するか、その作品選びは難しいです。その中でこの二〇年間ほど再演を重ね、日本各地だけでなく海外、イギリス、アメリカ、東欧、香港、シンガポールなどでも上演した「小栗判官照手姫」についてお話します。
「小栗」の物語について、御存知の方もいらっしゃるかと思いますが、この物語は鎌倉時代末期に生まれ、それからずっと説教節として語り伝えられてきました。江戸時代に入ってから歌舞伎としても上演されました。しかしもともとは、平家物語などと同じように語りものとして生まれたのです。説教節といいますのは、お坊さんが信者に仏教説話などを語って聞かせたことから始まったもので、もともとが文字で読むのではなく、耳から聞く、語るために生まれた口承文学の一つです。
こうした芸能は我が国だけではなく世界各地にあり、特にアジアには「語り」の芸能がいろいろ残っています。最近、我が国では、文学作品を題材にした「朗読」や「語り」がたいへん盛んになり、たくさんのグループがあります。
ではここで、小栗の物語について簡単にそのストーリーをお話しましょう。
小栗は京都で大納言という位の高い家の一人息子として生まれ、たいへんに頭も良く、色男で、武芸にも秀でた若者に育ちます。しかし自由奔放な性格で、奥さんを七十二人も追い出し、京都のみぞろが池に住む大蛇の化身した美しい娘とねんごろになり、とうとう父親の怒りをかい、関東に追放されてしまう。しかし関東に来ても人気があり、多くの家臣が集まってきます、だがなかなか気に入った奥さんとは出会えないでいます。
すると旅の商人に、相模の国、今でいいますと八王子のあたりなのですが、その一帯を治めていた横山家に、照手姫という聡明で美しい娘がいると教えられ、照手の父親の許しももらわずに略奪結婚をしてしまう。横山一族はかんかんに怒って小栗を亡き者にしようと、騙して人喰い馬の鬼鹿毛に食べさせようとしますが、小栗は見事に乗りこなしてしまう。では次の手と考えた横山は、小栗とその家来達十人共々、毒の酒を騙して飲ませ、殺してしまいます。
しかし、勘当されたとはいえ、大納言の息子ですから、うっかりすれば天皇からおとがめもあるかもしれぬと、娘の照手姫も同罪とし、相模川に沈めてしまおうとするのですが、沈めることを命ぜられた家来が照手に同情して、殺さずに船に乗せ、流してしまいます。
照手は親切な漁師の親方に助けられるのですが、女房に人買いに売られてしまいます。そして照手は人買いの手から手に売られ、今でいう岐阜県大垣の近く、青墓になった大きな遊女屋で、遊女達に仕える下の水仕として働いています。
一方小栗は、家来共々死んで地獄に落ち、エンマ大王の前に連れ出されるのですが、家来達のたっての願いにより、再びこの世にもどされることになります。そして口もきけず、見ることも歩くこともできない、見るからに恐ろしい餓鬼の姿となり、墓を割ってこの世に戻ってきますが、エンマの手紙がその首にかけられ、「この者を熊野の湯の峰まで運び、その薬の湯につかれば元の小栗にもどれる」、と書いてあります。そのエンマの手紙を見た藤沢のお上人――時宗、一遍上人の起こした宗派で、現在も神奈川県の藤沢に遊行寺という時宗の大本山があり、そこには照手や小栗、鬼鹿毛の墓がありますが――そのお上人は餓鬼の姿となった小栗を土車――今でいいますと車イスでしょうか――そこに座らせ、「一引き引いたは千僧供養、二引き引いたは万僧供養」と唱えながら、熊野に向かって引き出します。小栗が殺されたのは神奈川ですから、熊野、和歌山までその長い道のりを、いろいろな人々の手によって引かれてゆきます。「一引き引いたは千僧供養」と言いますのは、土車を引いた人達の無くなった親、兄弟、子供、妻、友人などの霊のため、この土車を引けば千人の僧を集めて供養するよりも、もっと供養になるという意味です。
餓鬼の姿となった小栗を乗せた土車が、照手の働いている青墓の遊女屋の前で止まっているのを見つけた照手は、死んだ夫の小栗や十人の家来達の為にその車を引くことを決心し、主人に願い出て、五日間だけ引くことを許されます。照手は笹の葉に垂をつけ、顔に油煙の墨を塗り、まるで狂人のような姿となり、熊野に向けて引いてゆき、主人と約束したとおり、五日目に青墓まで帰るのですが、いよいよ別れの夜は、夫の小栗と知らずにグロテスクな姿の餓鬼に添い寝し、涙ながらに別れを惜しみます。この物語の中でも一番の聞き所、見所になっている場面です。
小栗の乗った土車は、道行く善男善女の手から手に引いてゆかれ、険しい山を越え、熊野の湯の峰の湯につかり、元の姿にもどります。その後、小栗は勘当された両親にも再会し、照手ともめでたく再会を果たし、末永く共に生きた。簡単に言いますとこうした物語です。
第7回 仮面劇「小栗判官照手姫」――死と再生の物語 その2 に続く
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再生作業としての演劇行為
2011年11月11日金曜日
再生作業としての演劇行為 その5
様々な仮面 その2
仮面、それはどんな仮面でも、どんな動きをしなければならないというような約束はありません。レッスンの場合、まず仮面をつけて鏡の前に立ち、体全体となじませ、それぞれの仮面の持つキャラクターを自分なりに感じて動くようにします。その場合、その演じ手のイメージで動くのです。ただ顔の表情は見えないのですから、全身でその感情表現を表さなければなりません。またその表現が演じる者の内面とつながっていないと、より嘘っぽく見えてしまいます。
また仮面の持つ形、その特徴をつかみ、動きの中に生かしてゆく必要もあります。それに老人の面だからと、老人をパターン化して動いても面白くありませんし、動物の面だからと言って、ただ動物、たとえば猫の面だから猫の真似をしても面白くないのです。人は猫になれません。その仮面にあった新たな猫をつくりださなければなりません。
これはインドで生まれたマハーバーラタの物語を仮面劇として上演した時、私が作った仮面です。
マハーバーラタとは紀元前四〇〇年頃生まれ、四世紀頃完成した、世界で一番長く、一番古い物語といわれ、我が国にも影響を与え、アジア各地に伝わり、今も多くの人々に親しまれているものです。能や歌舞伎の中にもその物語の一部が作品化され、現在も上演されています。
私が舞台化したのは、インドからインドネシア、ジャワ島に伝わり、ジャワの王権神話や、のちにイスラム教の教えなども加わり、今も影絵芝居として上演されているものからです。マハーバーラタはインドネシア読みです。その影絵芝居のダラン、語り手によって語られる物語をもとに、脚本化して上演しました。
その物語の中で、影絵芝居に必ずと言っていいほど登場してくるペトルとガレンと呼ばれる道化の為に作った仮面です。黄色の方は、日本に古くからある腫面からヒントを得て作りました。
こうして見てくると、それぞれの民族や芸能の特色を、仮面が持っていることがよくわかります。その中でも仮面の眼の作り方にそれぞれの芸能の特色が現れています。どこが違うかと申しますと、眼の穴の開け方に特色があります。
能面はほとんど黒眼の所だけに穴が開いていて、演者はたいへん見にくいものです。それに能面はヒノキを彫って作るので、木の厚さの分だけ見にくくなっていて、それは能の表現様式に関係があります。まず能の舞台はその広さが決まっていますし、高低がなく、舞台の装置といってもシンプルなものです。動きも、たとえばとんぼを切るようなこともありませんし、重心を下にした動きですから、このようにあまり見えなくても安全なのです。能の演者は自分の進む方向はあまりよく見えません。ではなぜ、このような不便な仮面を使うのかと言いますと、能の表現は、内側のテンションを非常に高くし、表面は静かにという特色を持っているからです。
それにひきかえ、コメディア・デラルテの仮面は、この仮面を見てもわかるように目の穴が大きい、仮面によってはもっと大きく開けたものがあります。やはりこれもコメディア・デラルテの表現スタイルによります。とても激しい動きをするのです。ですから能面のようなものをつけて演じたら怪我をしてしまいます。
この能面とコメディア・デラルテの仮面の中間にあるのが、バリ島やジャワ島の仮面の眼の開け方です。眼球の下側にそって横に長く穴があけられています。ですから能面より良く見え、動きも自由です。バリの仮面をつけての動きを見ていますと、階段を上ったり下がったり、野外での上演が多く、とんぼまでは切りませんが体を廻転させる動きも多いようです。
このように、仮面はそれぞれの芸能の持つ表現スタイルによって、作り方が違っています。
以上申し上げてきたように、仮面はそれぞれの民族や表現様式の違いが反映されて作られていますので、どんなものにも使えるというわけではありません。ですから、表現したい方向性に見合った物を作る必要があり、だんだんに新しい仮面を創作する方向になり、自分で仮面を作るようになってゆきました。
最初の方で、現代の仮面劇を上演する劇団やグループがほとんどないと申し上げましたが、その一つの理由に、創作仮面の作り手がほとんどいないのです。舞台美術のデザイナーや造形作家、人形劇の人形作家などが作る場合がありますが、手間が大変な割りに、顔につけ、表情豊かに見え、キャラクターを持ったものを作るのはなかなか難しく、また需要もそれほどありませんから、創作仮面を作る人はあまりいないのです。もしもっと仮面を作る人がいたら、仮面劇や仮面舞踊をやる人は増えるのではないでしょうか。
再生作業としての演劇行為 その6 に続く。
仮面、それはどんな仮面でも、どんな動きをしなければならないというような約束はありません。レッスンの場合、まず仮面をつけて鏡の前に立ち、体全体となじませ、それぞれの仮面の持つキャラクターを自分なりに感じて動くようにします。その場合、その演じ手のイメージで動くのです。ただ顔の表情は見えないのですから、全身でその感情表現を表さなければなりません。またその表現が演じる者の内面とつながっていないと、より嘘っぽく見えてしまいます。
また仮面の持つ形、その特徴をつかみ、動きの中に生かしてゆく必要もあります。それに老人の面だからと、老人をパターン化して動いても面白くありませんし、動物の面だからと言って、ただ動物、たとえば猫の面だから猫の真似をしても面白くないのです。人は猫になれません。その仮面にあった新たな猫をつくりださなければなりません。
これはインドで生まれたマハーバーラタの物語を仮面劇として上演した時、私が作った仮面です。
マハーバーラタとは紀元前四〇〇年頃生まれ、四世紀頃完成した、世界で一番長く、一番古い物語といわれ、我が国にも影響を与え、アジア各地に伝わり、今も多くの人々に親しまれているものです。能や歌舞伎の中にもその物語の一部が作品化され、現在も上演されています。
私が舞台化したのは、インドからインドネシア、ジャワ島に伝わり、ジャワの王権神話や、のちにイスラム教の教えなども加わり、今も影絵芝居として上演されているものからです。マハーバーラタはインドネシア読みです。その影絵芝居のダラン、語り手によって語られる物語をもとに、脚本化して上演しました。
その物語の中で、影絵芝居に必ずと言っていいほど登場してくるペトルとガレンと呼ばれる道化の為に作った仮面です。黄色の方は、日本に古くからある腫面からヒントを得て作りました。
こうして見てくると、それぞれの民族や芸能の特色を、仮面が持っていることがよくわかります。その中でも仮面の眼の作り方にそれぞれの芸能の特色が現れています。どこが違うかと申しますと、眼の穴の開け方に特色があります。
能面はほとんど黒眼の所だけに穴が開いていて、演者はたいへん見にくいものです。それに能面はヒノキを彫って作るので、木の厚さの分だけ見にくくなっていて、それは能の表現様式に関係があります。まず能の舞台はその広さが決まっていますし、高低がなく、舞台の装置といってもシンプルなものです。動きも、たとえばとんぼを切るようなこともありませんし、重心を下にした動きですから、このようにあまり見えなくても安全なのです。能の演者は自分の進む方向はあまりよく見えません。ではなぜ、このような不便な仮面を使うのかと言いますと、能の表現は、内側のテンションを非常に高くし、表面は静かにという特色を持っているからです。
それにひきかえ、コメディア・デラルテの仮面は、この仮面を見てもわかるように目の穴が大きい、仮面によってはもっと大きく開けたものがあります。やはりこれもコメディア・デラルテの表現スタイルによります。とても激しい動きをするのです。ですから能面のようなものをつけて演じたら怪我をしてしまいます。
この能面とコメディア・デラルテの仮面の中間にあるのが、バリ島やジャワ島の仮面の眼の開け方です。眼球の下側にそって横に長く穴があけられています。ですから能面より良く見え、動きも自由です。バリの仮面をつけての動きを見ていますと、階段を上ったり下がったり、野外での上演が多く、とんぼまでは切りませんが体を廻転させる動きも多いようです。
このように、仮面はそれぞれの芸能の持つ表現スタイルによって、作り方が違っています。
以上申し上げてきたように、仮面はそれぞれの民族や表現様式の違いが反映されて作られていますので、どんなものにも使えるというわけではありません。ですから、表現したい方向性に見合った物を作る必要があり、だんだんに新しい仮面を創作する方向になり、自分で仮面を作るようになってゆきました。
最初の方で、現代の仮面劇を上演する劇団やグループがほとんどないと申し上げましたが、その一つの理由に、創作仮面の作り手がほとんどいないのです。舞台美術のデザイナーや造形作家、人形劇の人形作家などが作る場合がありますが、手間が大変な割りに、顔につけ、表情豊かに見え、キャラクターを持ったものを作るのはなかなか難しく、また需要もそれほどありませんから、創作仮面を作る人はあまりいないのです。もしもっと仮面を作る人がいたら、仮面劇や仮面舞踊をやる人は増えるのではないでしょうか。
再生作業としての演劇行為 その6 に続く。
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再生作業としての演劇行為
2011年8月21日日曜日
再生作業としての演劇行為 その4
第四回~様々な仮面
ここには私のオリジナルの仮面もありますが、これはコメディア・デラルテで使用される仮面です。作者はイタリアの仮面作家の第一人者、サルトーリさんの手になるものです。
イタリアは皮の加工技術がとても優れていて、イタリア製の靴やかばんなどは皆さんもよく御存じでしょう。コメディア・デラルテはギリシャ劇の流れをくむものですが、ギリシャ劇で使われていた仮面は恐らく皮製ではなく。ギリシャの時代に使用された仮面は残っていません。絵とか彫刻などに残っているようですが、現物は無いので、何で作っていたかよくわからないようです。
このコメディア・デラルテの仮面は、一度イタリアでも途絶えていたものを、新たにストレールによって、こうした技法で作り出されたものです。
皆さんもよく御存じのピエロ、これもコメディア・デラルテの道化役がフランスに行き、今のような形になったと言われております。鼻の頭にあの赤いピンポン玉のようなものをつけます。おそらくこれは世界で一番小さい仮面かもしれません。
さて次ぎは日本の能面ですが、今日私が持って来たのは、おそらく日本にただ一つしかない能面の半面です。これは北沢三次郎さんとおっしゃる能面打ちの方が、私の仮面劇を見て、試作として作って、私に下さったものです。
日本には古くから仮面劇はありますが、半面、つまり鼻の下が無く、演者の口が見えているものは見かけません。ではなぜ半面が作られたのか、それは言葉を、セリフをたくさん言うためです。半面は、さっきのコメディア・デラルテ、それからインドネシアのバリ島の物に多く見られます。
レッスンの中で、こうしたコメディア・デラルテの仮面や能面を使うことはできますが、どこかギコチない。なんとなくイタリア人のような動きになり、両手を広げて「Oh!」なんてなったり、能面だと、構えて、スリ足まではしないまでも、何となく習ったこともない能風になったりしてしまう。
身体表現というものは、その民族の持つ身振りや約束事が出てきます。身体表現はそうしたものから逃れられないようです。
私がかつで、フランスの演出家ピーター・ブルックの所で俳優をやっているヨシ・笈田君達と一緒にカナダ、アメリカ、オランダ、フランスなどで、現地の人達とのワークショップと公演をして廻ったことがあったのですが、その民族や国によって、ただ立つということが、こんなに違うのかと改めて思ったことがありました。日本人の場合は「ただ立って下さい」と言うと、体全体を正面に向け、足を少し開き、両手をやや構えたように下げます。ヨーロッパ系の人達、たとえばフランス人の俳優さんは、やや斜めに構え、足を少し前後に開いて立ちます。アメリカの人だと、体全体から力を抜き、少し肩を落としぎみに立ちます。身体というものは、やはりこうしたものが埋め込まれていて、それぞれの文化を表すものだと気付きました。
第五回~様々な仮面 その2 へ続く
ここには私のオリジナルの仮面もありますが、これはコメディア・デラルテで使用される仮面です。作者はイタリアの仮面作家の第一人者、サルトーリさんの手になるものです。
イタリアは皮の加工技術がとても優れていて、イタリア製の靴やかばんなどは皆さんもよく御存じでしょう。コメディア・デラルテはギリシャ劇の流れをくむものですが、ギリシャ劇で使われていた仮面は恐らく皮製ではなく。ギリシャの時代に使用された仮面は残っていません。絵とか彫刻などに残っているようですが、現物は無いので、何で作っていたかよくわからないようです。
このコメディア・デラルテの仮面は、一度イタリアでも途絶えていたものを、新たにストレールによって、こうした技法で作り出されたものです。
皆さんもよく御存じのピエロ、これもコメディア・デラルテの道化役がフランスに行き、今のような形になったと言われております。鼻の頭にあの赤いピンポン玉のようなものをつけます。おそらくこれは世界で一番小さい仮面かもしれません。
さて次ぎは日本の能面ですが、今日私が持って来たのは、おそらく日本にただ一つしかない能面の半面です。これは北沢三次郎さんとおっしゃる能面打ちの方が、私の仮面劇を見て、試作として作って、私に下さったものです。
日本には古くから仮面劇はありますが、半面、つまり鼻の下が無く、演者の口が見えているものは見かけません。ではなぜ半面が作られたのか、それは言葉を、セリフをたくさん言うためです。半面は、さっきのコメディア・デラルテ、それからインドネシアのバリ島の物に多く見られます。
レッスンの中で、こうしたコメディア・デラルテの仮面や能面を使うことはできますが、どこかギコチない。なんとなくイタリア人のような動きになり、両手を広げて「Oh!」なんてなったり、能面だと、構えて、スリ足まではしないまでも、何となく習ったこともない能風になったりしてしまう。
身体表現というものは、その民族の持つ身振りや約束事が出てきます。身体表現はそうしたものから逃れられないようです。
私がかつで、フランスの演出家ピーター・ブルックの所で俳優をやっているヨシ・笈田君達と一緒にカナダ、アメリカ、オランダ、フランスなどで、現地の人達とのワークショップと公演をして廻ったことがあったのですが、その民族や国によって、ただ立つということが、こんなに違うのかと改めて思ったことがありました。日本人の場合は「ただ立って下さい」と言うと、体全体を正面に向け、足を少し開き、両手をやや構えたように下げます。ヨーロッパ系の人達、たとえばフランス人の俳優さんは、やや斜めに構え、足を少し前後に開いて立ちます。アメリカの人だと、体全体から力を抜き、少し肩を落としぎみに立ちます。身体というものは、やはりこうしたものが埋め込まれていて、それぞれの文化を表すものだと気付きました。
第五回~様々な仮面 その2 へ続く
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再生作業としての演劇行為
2011年8月7日日曜日
再生作業としての演劇行為 その3
第三回~仮面を私はなぜ使い始めたか――身体性の回復――
普通の俳優さんは仮面をつけることをあまり好みません。それに仮面をつけてしまっては、俳優さんとして顔が売れませんからね。まあ、それは冗談として、戦後しばらくして私が演劇にたずさわるようになったのは、アングラ演劇と呼ばれるものが盛んになった頃です。一九六〇年から七〇年、その頃若い俳優達、その多くは大学生や大学出たての、何も訓練など受けたことのない若者達でした。言葉だけでなく、からだを使って表現することもそれなりに訓練が必要ですが、そう簡単ではありません。その頃の演劇は表現技術の訓練より、運動としての演劇、新劇へのアンチテーゼとしての演劇という考えが強かった。たとえば「黒テント」――今でも活動を続けている、アングラ劇を代表する劇団ですが――その劇団の入団のためのオーディションでは、「君のセクトは?」「はい、僕は革マルです」などという言葉が行き交った時代です。そうした若者達にどうやって身体表現能力を持たせることが出来るか、その中で考えついたのが仮面でした。そしてその基礎となったのが、パリーにあったルコック演劇研究所における、ルコック・システムで行われていた仮面のレッスンでした。そこで使われていたコメディア・デラルテの道化、仮面を使った道化の表現のためのメソッドでした。幸い、ルコックの研究所に留学して帰国した人もいて、その人達と一緒に仮面のレッスンをするようになりました。これが最初に、私が仮面を使い始めたきっかけとなったのです。
たとえば中性面という、キャラクターのないものとして作られた仮面をつけ、焔となる――体内に火種が生まれ、少しずつ体全体に焔がひろがり、あたりまで焼きつくし、燃え尽きるまでを表現するのですが、人によってはトランスしてしまうところまで行ってしまう。まあそれだけ仮面をつけることにより、解放される訳です。しかしトランスしてしまっては表現にならなくなってしまうので、その一歩手前で止まり、全身を使って焔を表します。こうした中で、それまでに自分を縛っていたもの、習慣や拘束されてきたものから解放されるレッスンをしたわけです。
レッスンと言いますと、何か決まったやり方を訓練して覚えてゆくことかと考えがちですが、このレッスンは、それまでその人に染みついてしまっている教育や既成概念を取り払うこと、そして身体表現の幅や、新鮮さを発見することに、仮面は役立ったのです。しかしこれだけでは仮面を使って具体的な作品を表現するには至りません。一度解放したところから、表現することへの道を探ってゆくのです。この表現を具体化してゆく中で、私達の歴史性や自然観を見つけ、私達なりの現代仮面劇を発見してゆくのです。
そこで、仮面の造形性、物語の選択などが重要になり、その結果、自分でも仮面を作ったり、アジアの仮面劇の勉強も必要になってゆきました。
第四回~様々な仮面 に続く
普通の俳優さんは仮面をつけることをあまり好みません。それに仮面をつけてしまっては、俳優さんとして顔が売れませんからね。まあ、それは冗談として、戦後しばらくして私が演劇にたずさわるようになったのは、アングラ演劇と呼ばれるものが盛んになった頃です。一九六〇年から七〇年、その頃若い俳優達、その多くは大学生や大学出たての、何も訓練など受けたことのない若者達でした。言葉だけでなく、からだを使って表現することもそれなりに訓練が必要ですが、そう簡単ではありません。その頃の演劇は表現技術の訓練より、運動としての演劇、新劇へのアンチテーゼとしての演劇という考えが強かった。たとえば「黒テント」――今でも活動を続けている、アングラ劇を代表する劇団ですが――その劇団の入団のためのオーディションでは、「君のセクトは?」「はい、僕は革マルです」などという言葉が行き交った時代です。そうした若者達にどうやって身体表現能力を持たせることが出来るか、その中で考えついたのが仮面でした。そしてその基礎となったのが、パリーにあったルコック演劇研究所における、ルコック・システムで行われていた仮面のレッスンでした。そこで使われていたコメディア・デラルテの道化、仮面を使った道化の表現のためのメソッドでした。幸い、ルコックの研究所に留学して帰国した人もいて、その人達と一緒に仮面のレッスンをするようになりました。これが最初に、私が仮面を使い始めたきっかけとなったのです。
たとえば中性面という、キャラクターのないものとして作られた仮面をつけ、焔となる――体内に火種が生まれ、少しずつ体全体に焔がひろがり、あたりまで焼きつくし、燃え尽きるまでを表現するのですが、人によってはトランスしてしまうところまで行ってしまう。まあそれだけ仮面をつけることにより、解放される訳です。しかしトランスしてしまっては表現にならなくなってしまうので、その一歩手前で止まり、全身を使って焔を表します。こうした中で、それまでに自分を縛っていたもの、習慣や拘束されてきたものから解放されるレッスンをしたわけです。
レッスンと言いますと、何か決まったやり方を訓練して覚えてゆくことかと考えがちですが、このレッスンは、それまでその人に染みついてしまっている教育や既成概念を取り払うこと、そして身体表現の幅や、新鮮さを発見することに、仮面は役立ったのです。しかしこれだけでは仮面を使って具体的な作品を表現するには至りません。一度解放したところから、表現することへの道を探ってゆくのです。この表現を具体化してゆく中で、私達の歴史性や自然観を見つけ、私達なりの現代仮面劇を発見してゆくのです。
そこで、仮面の造形性、物語の選択などが重要になり、その結果、自分でも仮面を作ったり、アジアの仮面劇の勉強も必要になってゆきました。
第四回~様々な仮面 に続く
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再生作業としての演劇行為
2011年8月5日金曜日
再生作業としての演劇行為 その2
第二回~仮面とは
では仮面とはなんなのでしょう。
仮面は人類が文明を持ったときからあったと言われ、非常に古くから使われてきました。
では、どのような理由で人は仮面を作り、付け、何を表現しようとしたのでしょうか。
古くは宗教的な儀式や祭りに使われたのが始めだと思いますが、たとえばアフリカなどでは裁判にも使われたようです。ひとつは共同体の中で「誰かが鶏を盗んだ」とすると、その罪を問わなければならない。こういうことが起きてきたときに、長老が仮面をつけて、村の人たちは輪になって踊りはじめる。するとあるところで長老が神がかりして――神様が自分にのりうつって――ばったりと倒れるわけです。すると仮面についている角の先が触れるわけですが、その触れた人が犯人だということになる。これはぜんぜん偶然ではなくて、長老は村のことをよく知っています。それではなぜそのようなことをしたのかというと、この裁判の結果は神が決めたものだ、神が見ていたものだという考え方をとっていたからだと思います。
それから日本にも古い行事の中で「なまはげ」というものがあります。東北の方はよくご存知かと思います。これはお正月ですか、近所のおじさんが仮面をつけて出てきて「勉強しろ!」「親の言うことを聞け!」と言うわけですね。すると子供はわんわん泣いて言うことを聞く。おじさんがそのまま出てきたのでは言うことを聞かないけれども、仮面をつけると子供はそれに恐怖をおぼえて言うことを聞く。つけている方もその気になる。そういう両面があるわけです。ものに変身する、扮するという一番端的な手法としては、仮面というものが便利なわけです。仮面をつけると、一種の神がかり状態に近付いていくということがあるわけですね。
また演劇的なものとしては、たとえばギリシャ劇などでは神々を描く。ギリシャには野外劇場があって、王様から一般市民までがそこに集まって、ギリシャ神話の世界、ギリシャ神話の中の物語を、仮面をつけてコロスが中心になって――コロスというのはコーラスですね――、人数が決められていて仮面を換えながらされていたようです。そういうのが、演劇の芸術として形になったものとしては最初だったわけです。
そのほかにも、世界にはいろいろな発祥があります。
日本にも能というものが生まれる前には、神楽だとか田楽といったものがある。神楽も鬼の面をつけ、ヤマトタケルの神様が仮面をつけて出てくる。そういったものが今でも行われているわけです。昔の共同体では人々のいとなみの中で仮面というものは使われていた。こうしてみますと、仮面を使った演劇的表現の方が古く、今私達が演劇と呼んでいるもの、心理劇などは新しいものであり、演劇のルーツは仮面劇だと言えます。
しかし近代社会においては、舞台に神々や魔もの、動物や植物などが登場する、祝祭性の強い演劇はあまり重視されなくなり、人間中心の演劇が主流となり、仮面を使用するものは少なくなってきました。たとえば、ホームドラマ「渡る世間は鬼ばかり」を仮面をつけてやるわけにはゆきません。それはチェーホフ作品についてもしかりです。
しかし一方では、我が国で能、狂言や神楽が今でも上演されていますように、主にアジア各地、インドやインドネシア、中国、韓国などでも、仮面劇や仮面舞踊は、昔ほど盛んだとは言えませんが、上演されています。
では仮面を使うことでどんな面白さや利点があるのでしょうか。まず顔につけただけで、一瞬にして神や魔物、動物になれる。それは観客だけではなく、演じる人間もその気になれるのです。顔を隠す行為は、たとえばサングラスをかけたり化粧をすることで、私達は気分が変り、大胆になったりします。
そのように仮面は変身のためのより便利な小道具であり、日常的ではないもの、見たこともないような世界を表現することに非常に適している。ある人物なり、神や精霊との一体感を、演ずる側も、見る側も体験できるわけです。そして、そには見えないものを見ることができ、優れた仮面と優れた演者によって、神話や童話がリアリティーを持って観る人に迫ってくるのです。俳優の個人が消え、物語世界を出現させることが可能になるのです。
しかし近代劇において、仮面を使用することはほとんど無くなってしまいました。さっきも申し上げたようにチェーホフでは仮面が必要ではなくなったのです。近代劇は仮面を排除する方向に行ったわけです。それは人間中心のドラマが主流となり、俳優の表現する方向も大きく変ったのです。
しかし戦後になり、ヨーロッパを中心とした演劇の中で再び仮面を見直す動きが生まれてきました。そして俳優レッスンの中でも仮面が使われるようになりました。
では、なぜ仮面をつけての表現を見直すようになったのでしょうか。
それはやはり「近代」社会、近代における人間観や自然を見直そうとする意識の中から生まれてきたのだと思います。科学の発達、物質文明、一種の合理主義――そういうものの中で、人間が本来持っていた、たとえば呪術性であったり、神秘性であったり、それから身体性をもう一度取り戻す、からだに埋め込まれた潜在性とか連続性といったものが、演劇などでも問われるようになってきたわけです。
最近ある建築家のこんな言葉を読みました。バウハウス――これは一九一九年、建築家のグロビウスが中心となってドイツに生まれた芸術学校で、機械技術と芸術の総合を理想とし、その教授の中にはポール・クレーやカンディンスキーなどがいて、近代芸術の展開に大きな影響を与えたのですが――そのバウハウスの運動の中で欠けていたものは、自然と歴史であったと言っております。演劇において自然や歴史、物語性を取り戻す、そのために身体性を見直す、そんな気運が強くなり、我が国の能やインドの古典芸能、インドネシアの仮面劇、イタリアにあったコメディア・デラルテ(ギリシャ劇から生まれた仮面喜劇)などが見直されるようになったのです。
第三回~仮面を私はなぜ使い始めたか――身体性の回復――
に続く
では仮面とはなんなのでしょう。
仮面は人類が文明を持ったときからあったと言われ、非常に古くから使われてきました。
では、どのような理由で人は仮面を作り、付け、何を表現しようとしたのでしょうか。
古くは宗教的な儀式や祭りに使われたのが始めだと思いますが、たとえばアフリカなどでは裁判にも使われたようです。ひとつは共同体の中で「誰かが鶏を盗んだ」とすると、その罪を問わなければならない。こういうことが起きてきたときに、長老が仮面をつけて、村の人たちは輪になって踊りはじめる。するとあるところで長老が神がかりして――神様が自分にのりうつって――ばったりと倒れるわけです。すると仮面についている角の先が触れるわけですが、その触れた人が犯人だということになる。これはぜんぜん偶然ではなくて、長老は村のことをよく知っています。それではなぜそのようなことをしたのかというと、この裁判の結果は神が決めたものだ、神が見ていたものだという考え方をとっていたからだと思います。
それから日本にも古い行事の中で「なまはげ」というものがあります。東北の方はよくご存知かと思います。これはお正月ですか、近所のおじさんが仮面をつけて出てきて「勉強しろ!」「親の言うことを聞け!」と言うわけですね。すると子供はわんわん泣いて言うことを聞く。おじさんがそのまま出てきたのでは言うことを聞かないけれども、仮面をつけると子供はそれに恐怖をおぼえて言うことを聞く。つけている方もその気になる。そういう両面があるわけです。ものに変身する、扮するという一番端的な手法としては、仮面というものが便利なわけです。仮面をつけると、一種の神がかり状態に近付いていくということがあるわけですね。
また演劇的なものとしては、たとえばギリシャ劇などでは神々を描く。ギリシャには野外劇場があって、王様から一般市民までがそこに集まって、ギリシャ神話の世界、ギリシャ神話の中の物語を、仮面をつけてコロスが中心になって――コロスというのはコーラスですね――、人数が決められていて仮面を換えながらされていたようです。そういうのが、演劇の芸術として形になったものとしては最初だったわけです。
そのほかにも、世界にはいろいろな発祥があります。
日本にも能というものが生まれる前には、神楽だとか田楽といったものがある。神楽も鬼の面をつけ、ヤマトタケルの神様が仮面をつけて出てくる。そういったものが今でも行われているわけです。昔の共同体では人々のいとなみの中で仮面というものは使われていた。こうしてみますと、仮面を使った演劇的表現の方が古く、今私達が演劇と呼んでいるもの、心理劇などは新しいものであり、演劇のルーツは仮面劇だと言えます。
しかし近代社会においては、舞台に神々や魔もの、動物や植物などが登場する、祝祭性の強い演劇はあまり重視されなくなり、人間中心の演劇が主流となり、仮面を使用するものは少なくなってきました。たとえば、ホームドラマ「渡る世間は鬼ばかり」を仮面をつけてやるわけにはゆきません。それはチェーホフ作品についてもしかりです。
しかし一方では、我が国で能、狂言や神楽が今でも上演されていますように、主にアジア各地、インドやインドネシア、中国、韓国などでも、仮面劇や仮面舞踊は、昔ほど盛んだとは言えませんが、上演されています。
では仮面を使うことでどんな面白さや利点があるのでしょうか。まず顔につけただけで、一瞬にして神や魔物、動物になれる。それは観客だけではなく、演じる人間もその気になれるのです。顔を隠す行為は、たとえばサングラスをかけたり化粧をすることで、私達は気分が変り、大胆になったりします。
そのように仮面は変身のためのより便利な小道具であり、日常的ではないもの、見たこともないような世界を表現することに非常に適している。ある人物なり、神や精霊との一体感を、演ずる側も、見る側も体験できるわけです。そして、そには見えないものを見ることができ、優れた仮面と優れた演者によって、神話や童話がリアリティーを持って観る人に迫ってくるのです。俳優の個人が消え、物語世界を出現させることが可能になるのです。
しかし近代劇において、仮面を使用することはほとんど無くなってしまいました。さっきも申し上げたようにチェーホフでは仮面が必要ではなくなったのです。近代劇は仮面を排除する方向に行ったわけです。それは人間中心のドラマが主流となり、俳優の表現する方向も大きく変ったのです。
しかし戦後になり、ヨーロッパを中心とした演劇の中で再び仮面を見直す動きが生まれてきました。そして俳優レッスンの中でも仮面が使われるようになりました。
では、なぜ仮面をつけての表現を見直すようになったのでしょうか。
それはやはり「近代」社会、近代における人間観や自然を見直そうとする意識の中から生まれてきたのだと思います。科学の発達、物質文明、一種の合理主義――そういうものの中で、人間が本来持っていた、たとえば呪術性であったり、神秘性であったり、それから身体性をもう一度取り戻す、からだに埋め込まれた潜在性とか連続性といったものが、演劇などでも問われるようになってきたわけです。
最近ある建築家のこんな言葉を読みました。バウハウス――これは一九一九年、建築家のグロビウスが中心となってドイツに生まれた芸術学校で、機械技術と芸術の総合を理想とし、その教授の中にはポール・クレーやカンディンスキーなどがいて、近代芸術の展開に大きな影響を与えたのですが――そのバウハウスの運動の中で欠けていたものは、自然と歴史であったと言っております。演劇において自然や歴史、物語性を取り戻す、そのために身体性を見直す、そんな気運が強くなり、我が国の能やインドの古典芸能、インドネシアの仮面劇、イタリアにあったコメディア・デラルテ(ギリシャ劇から生まれた仮面喜劇)などが見直されるようになったのです。
第三回~仮面を私はなぜ使い始めたか――身体性の回復――
に続く
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再生作業としての演劇行為
2011年7月22日金曜日
再生作業としての演劇行為 その1
~仮面・人形・からだ~ 北方文化フォーラムより2005年4月15日
札幌大学の前学長、山口昌男先生にはいろいろとお世話になりました。私の作ってきた芝居に大変興味を持たれて、私達の船劇場公演にも足を運んでいただき、紹介記事や評を書いていただいたり、シンポジウムなどにも出席していただきました。
今回、私は初めてこの大学に来たのですが、とても美しく、設備も整っているのを見て、たいへんうらやましく思いました。それは、私が通っていた大学(芸大)が古く、汚かったせいかもしれません。学校へ住み着いている人なんかもいたりして、昼間から寝巻きでウロウロしているような学校でしたから、大学は汚いところだという先入観念があったからかもしれません。こんな場所で毎日勉強できる皆さんをうらやましく思います。ぜひしっかり勉強をして下さい。(笑)
さて、私がやっている舞台の仕事は、映像作品や本などと違って、ともかく劇場に足を運んでいただかないと、そのイメージやメッセージは伝わりません。でもそれだからこそ、舞台表現の持つ力や魅力はテレビや映画がこれだけ発展してもまだ十分に意味があり、重要だと考えています。ともかく舞台を観ていない方に、その面白さを伝えることの難しさはありますが、今日はなんとか皆さんに理解していただけるように努力してみます。
私がかかわり、作っている芝居は、おそらく普段皆さんが観ているものと違っているのではないでしょうか。それは仮面を使った芝居だからです。たとえば古典の能や狂言では仮面を使います、しかし現代劇で、仮面を使った舞台を上演しているところはほとんどありません。
第二回 *仮面とは に続く。
札幌大学の前学長、山口昌男先生にはいろいろとお世話になりました。私の作ってきた芝居に大変興味を持たれて、私達の船劇場公演にも足を運んでいただき、紹介記事や評を書いていただいたり、シンポジウムなどにも出席していただきました。
今回、私は初めてこの大学に来たのですが、とても美しく、設備も整っているのを見て、たいへんうらやましく思いました。それは、私が通っていた大学(芸大)が古く、汚かったせいかもしれません。学校へ住み着いている人なんかもいたりして、昼間から寝巻きでウロウロしているような学校でしたから、大学は汚いところだという先入観念があったからかもしれません。こんな場所で毎日勉強できる皆さんをうらやましく思います。ぜひしっかり勉強をして下さい。(笑)
さて、私がやっている舞台の仕事は、映像作品や本などと違って、ともかく劇場に足を運んでいただかないと、そのイメージやメッセージは伝わりません。でもそれだからこそ、舞台表現の持つ力や魅力はテレビや映画がこれだけ発展してもまだ十分に意味があり、重要だと考えています。ともかく舞台を観ていない方に、その面白さを伝えることの難しさはありますが、今日はなんとか皆さんに理解していただけるように努力してみます。
私がかかわり、作っている芝居は、おそらく普段皆さんが観ているものと違っているのではないでしょうか。それは仮面を使った芝居だからです。たとえば古典の能や狂言では仮面を使います、しかし現代劇で、仮面を使った舞台を上演しているところはほとんどありません。
第二回 *仮面とは に続く。
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