私は四角なプンドボの各辺の中央から、広場に向かって、三米幅の花道を造ってもらった。それは芝居に登場する、人間やオートバイ、自転車、べチャ(人力で運転し客を乗せて走る三輪の乗り物)などの出入りにそこを使いたかったからである。
実は自動車や馬車まで登場させたかったのだが、床がもたないと許可にならなかった。
あたり前ですよね。
その花道のおかげで、プンドボの中央が場面によって街の四つ辻のようになった。
舞台装置は他に一切なしである。
私は注射のせいで熱は下がっていたが、まだ足が地につかず、ふらふらしながら、客席に座り、初日の舞台を見守った。
厚く重い熱帯の夜の闇から。
花道を通り現れては再び闇に去ってゆく、仮面の神々や王子、王女、この地で戦死したボロボロの兵隊服をまとった残留日本兵の亡霊達。それにまじって登場するオートバイの若者や、風船売り、べチャに乗った日本人観光客達は、今街からやって来て、再び街に帰ってゆくようだ。
中央から放射状にひらいた、木組の美しく高い天井には、石の床に反響した、セリフの声や、ガムランの音色が昇ってゆき、まじり合い、観客の体に心地よく降りそそぐ。
時たま吹いてくる涼風に乗り聞こえて来る、犬の遠吠えや、コーランを唱える声など、それは何とも効果的で、演出家としてはしめしめである。
いよいよ戦争の場面だ。
広場の何ヶ所にも置いたかがりびがいっせいに燃えあがり、所々に生いしげる木々や、広場を囲んで建つ民家のくずれた白壁までも赤く染め、煙がたちこめ、油と木の燃える匂いが鼻を突く。
いったいここはどこなのだろう。
嬉しい事に自分はもう演出家ではなく、ただの参加者の一人になっていた。
今ここでは時代や物語り、現実の境界が消え、光も音も、匂いや風、闇や死者さえそれぞれの存在をよりたしかなものとし、おたがいに生き生きと呼吸し合い、泣き笑い、叫び、唄い踊り、祈る。ここに有るすべてが哀しいほどのあたたかさに包まれ輝いている。
これは自分の熱のせいだろうか?もしそうだとしても、私が私自身にあたえた責任の一つを果たせた、そんな満足感で幸福であった。
場(トポス)の持つ力によって、これほどまでに作品世界が生まれ変わり、見えないのではとあきらめていた世界が見えてきたのだ。
横浜・東京の劇場公演の不満のナゾが解けた気がした。
私は自分達の船劇場の事を思った。
今から二十年前、私達は横浜の運河に浮ぶ古い木造のハシケを買い取り、そこで公演活動を続けてきた。船は我々に「場」の力をあたえ、創造力を強く刺激してくれる。だが五年前その船は老朽化の為沈んでしまった。
そうだぜひもう一度船劇場を浮ばせねば、私はその願いを強くしていた。
三日間の上演中、一度の雨に邪魔されることなく、「耳の王子」の公演は無事終わった。
私はインドネシア側の面々に、「実はあの雨止めの祈祷を僕は信じていませんでした。ごめんなさい。」と謝った。
するとベン・スハルト氏が「何も謝ることはありませんよ。我々だって信じていたわけじゃありませんからね」といたずら坊主のような顔をして笑った。そしてみんなも私も笑った。
一年後、そのベン氏が癌の為、五十三才で急逝された。
私はジョクジャカルタに行き、あの雨を止めたユドヨノ先生の案内でベンさんのお墓参りをした。途中で雨が降り出してきた。ぬれた墓の上に彼が上演ごとに毎回舞台裏で、神話の中の登場人物カルノとアルジュノの影絵人形にむかってしていたと同じように、赤と白の花びらを撒き、聖水と線香をささげご冥福を祈った。私達はもう二度とベンさんが祈りをこめて華麗に踊るあの姿をこの目で見る事はできないのだ。
ユドヨノ先生が一緒でもその日の雨はふりやまなかった。(終)
(注)この文章は十勝毎日新聞に掲載された記事です
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