第四回~様々な仮面
ここには私のオリジナルの仮面もありますが、これはコメディア・デラルテで使用される仮面です。作者はイタリアの仮面作家の第一人者、サルトーリさんの手になるものです。
イタリアは皮の加工技術がとても優れていて、イタリア製の靴やかばんなどは皆さんもよく御存じでしょう。コメディア・デラルテはギリシャ劇の流れをくむものですが、ギリシャ劇で使われていた仮面は恐らく皮製ではなく。ギリシャの時代に使用された仮面は残っていません。絵とか彫刻などに残っているようですが、現物は無いので、何で作っていたかよくわからないようです。
このコメディア・デラルテの仮面は、一度イタリアでも途絶えていたものを、新たにストレールによって、こうした技法で作り出されたものです。
皆さんもよく御存じのピエロ、これもコメディア・デラルテの道化役がフランスに行き、今のような形になったと言われております。鼻の頭にあの赤いピンポン玉のようなものをつけます。おそらくこれは世界で一番小さい仮面かもしれません。
さて次ぎは日本の能面ですが、今日私が持って来たのは、おそらく日本にただ一つしかない能面の半面です。これは北沢三次郎さんとおっしゃる能面打ちの方が、私の仮面劇を見て、試作として作って、私に下さったものです。
日本には古くから仮面劇はありますが、半面、つまり鼻の下が無く、演者の口が見えているものは見かけません。ではなぜ半面が作られたのか、それは言葉を、セリフをたくさん言うためです。半面は、さっきのコメディア・デラルテ、それからインドネシアのバリ島の物に多く見られます。
レッスンの中で、こうしたコメディア・デラルテの仮面や能面を使うことはできますが、どこかギコチない。なんとなくイタリア人のような動きになり、両手を広げて「Oh!」なんてなったり、能面だと、構えて、スリ足まではしないまでも、何となく習ったこともない能風になったりしてしまう。
身体表現というものは、その民族の持つ身振りや約束事が出てきます。身体表現はそうしたものから逃れられないようです。
私がかつで、フランスの演出家ピーター・ブルックの所で俳優をやっているヨシ・笈田君達と一緒にカナダ、アメリカ、オランダ、フランスなどで、現地の人達とのワークショップと公演をして廻ったことがあったのですが、その民族や国によって、ただ立つということが、こんなに違うのかと改めて思ったことがありました。日本人の場合は「ただ立って下さい」と言うと、体全体を正面に向け、足を少し開き、両手をやや構えたように下げます。ヨーロッパ系の人達、たとえばフランス人の俳優さんは、やや斜めに構え、足を少し前後に開いて立ちます。アメリカの人だと、体全体から力を抜き、少し肩を落としぎみに立ちます。身体というものは、やはりこうしたものが埋め込まれていて、それぞれの文化を表すものだと気付きました。
第五回~様々な仮面 その2 へ続く
2011年8月21日日曜日
2011年8月7日日曜日
再生作業としての演劇行為 その3
第三回~仮面を私はなぜ使い始めたか――身体性の回復――
普通の俳優さんは仮面をつけることをあまり好みません。それに仮面をつけてしまっては、俳優さんとして顔が売れませんからね。まあ、それは冗談として、戦後しばらくして私が演劇にたずさわるようになったのは、アングラ演劇と呼ばれるものが盛んになった頃です。一九六〇年から七〇年、その頃若い俳優達、その多くは大学生や大学出たての、何も訓練など受けたことのない若者達でした。言葉だけでなく、からだを使って表現することもそれなりに訓練が必要ですが、そう簡単ではありません。その頃の演劇は表現技術の訓練より、運動としての演劇、新劇へのアンチテーゼとしての演劇という考えが強かった。たとえば「黒テント」――今でも活動を続けている、アングラ劇を代表する劇団ですが――その劇団の入団のためのオーディションでは、「君のセクトは?」「はい、僕は革マルです」などという言葉が行き交った時代です。そうした若者達にどうやって身体表現能力を持たせることが出来るか、その中で考えついたのが仮面でした。そしてその基礎となったのが、パリーにあったルコック演劇研究所における、ルコック・システムで行われていた仮面のレッスンでした。そこで使われていたコメディア・デラルテの道化、仮面を使った道化の表現のためのメソッドでした。幸い、ルコックの研究所に留学して帰国した人もいて、その人達と一緒に仮面のレッスンをするようになりました。これが最初に、私が仮面を使い始めたきっかけとなったのです。
たとえば中性面という、キャラクターのないものとして作られた仮面をつけ、焔となる――体内に火種が生まれ、少しずつ体全体に焔がひろがり、あたりまで焼きつくし、燃え尽きるまでを表現するのですが、人によってはトランスしてしまうところまで行ってしまう。まあそれだけ仮面をつけることにより、解放される訳です。しかしトランスしてしまっては表現にならなくなってしまうので、その一歩手前で止まり、全身を使って焔を表します。こうした中で、それまでに自分を縛っていたもの、習慣や拘束されてきたものから解放されるレッスンをしたわけです。
レッスンと言いますと、何か決まったやり方を訓練して覚えてゆくことかと考えがちですが、このレッスンは、それまでその人に染みついてしまっている教育や既成概念を取り払うこと、そして身体表現の幅や、新鮮さを発見することに、仮面は役立ったのです。しかしこれだけでは仮面を使って具体的な作品を表現するには至りません。一度解放したところから、表現することへの道を探ってゆくのです。この表現を具体化してゆく中で、私達の歴史性や自然観を見つけ、私達なりの現代仮面劇を発見してゆくのです。
そこで、仮面の造形性、物語の選択などが重要になり、その結果、自分でも仮面を作ったり、アジアの仮面劇の勉強も必要になってゆきました。
第四回~様々な仮面 に続く
普通の俳優さんは仮面をつけることをあまり好みません。それに仮面をつけてしまっては、俳優さんとして顔が売れませんからね。まあ、それは冗談として、戦後しばらくして私が演劇にたずさわるようになったのは、アングラ演劇と呼ばれるものが盛んになった頃です。一九六〇年から七〇年、その頃若い俳優達、その多くは大学生や大学出たての、何も訓練など受けたことのない若者達でした。言葉だけでなく、からだを使って表現することもそれなりに訓練が必要ですが、そう簡単ではありません。その頃の演劇は表現技術の訓練より、運動としての演劇、新劇へのアンチテーゼとしての演劇という考えが強かった。たとえば「黒テント」――今でも活動を続けている、アングラ劇を代表する劇団ですが――その劇団の入団のためのオーディションでは、「君のセクトは?」「はい、僕は革マルです」などという言葉が行き交った時代です。そうした若者達にどうやって身体表現能力を持たせることが出来るか、その中で考えついたのが仮面でした。そしてその基礎となったのが、パリーにあったルコック演劇研究所における、ルコック・システムで行われていた仮面のレッスンでした。そこで使われていたコメディア・デラルテの道化、仮面を使った道化の表現のためのメソッドでした。幸い、ルコックの研究所に留学して帰国した人もいて、その人達と一緒に仮面のレッスンをするようになりました。これが最初に、私が仮面を使い始めたきっかけとなったのです。
たとえば中性面という、キャラクターのないものとして作られた仮面をつけ、焔となる――体内に火種が生まれ、少しずつ体全体に焔がひろがり、あたりまで焼きつくし、燃え尽きるまでを表現するのですが、人によってはトランスしてしまうところまで行ってしまう。まあそれだけ仮面をつけることにより、解放される訳です。しかしトランスしてしまっては表現にならなくなってしまうので、その一歩手前で止まり、全身を使って焔を表します。こうした中で、それまでに自分を縛っていたもの、習慣や拘束されてきたものから解放されるレッスンをしたわけです。
レッスンと言いますと、何か決まったやり方を訓練して覚えてゆくことかと考えがちですが、このレッスンは、それまでその人に染みついてしまっている教育や既成概念を取り払うこと、そして身体表現の幅や、新鮮さを発見することに、仮面は役立ったのです。しかしこれだけでは仮面を使って具体的な作品を表現するには至りません。一度解放したところから、表現することへの道を探ってゆくのです。この表現を具体化してゆく中で、私達の歴史性や自然観を見つけ、私達なりの現代仮面劇を発見してゆくのです。
そこで、仮面の造形性、物語の選択などが重要になり、その結果、自分でも仮面を作ったり、アジアの仮面劇の勉強も必要になってゆきました。
第四回~様々な仮面 に続く
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再生作業としての演劇行為
2011年8月5日金曜日
再生作業としての演劇行為 その2
第二回~仮面とは
では仮面とはなんなのでしょう。
仮面は人類が文明を持ったときからあったと言われ、非常に古くから使われてきました。
では、どのような理由で人は仮面を作り、付け、何を表現しようとしたのでしょうか。
古くは宗教的な儀式や祭りに使われたのが始めだと思いますが、たとえばアフリカなどでは裁判にも使われたようです。ひとつは共同体の中で「誰かが鶏を盗んだ」とすると、その罪を問わなければならない。こういうことが起きてきたときに、長老が仮面をつけて、村の人たちは輪になって踊りはじめる。するとあるところで長老が神がかりして――神様が自分にのりうつって――ばったりと倒れるわけです。すると仮面についている角の先が触れるわけですが、その触れた人が犯人だということになる。これはぜんぜん偶然ではなくて、長老は村のことをよく知っています。それではなぜそのようなことをしたのかというと、この裁判の結果は神が決めたものだ、神が見ていたものだという考え方をとっていたからだと思います。
それから日本にも古い行事の中で「なまはげ」というものがあります。東北の方はよくご存知かと思います。これはお正月ですか、近所のおじさんが仮面をつけて出てきて「勉強しろ!」「親の言うことを聞け!」と言うわけですね。すると子供はわんわん泣いて言うことを聞く。おじさんがそのまま出てきたのでは言うことを聞かないけれども、仮面をつけると子供はそれに恐怖をおぼえて言うことを聞く。つけている方もその気になる。そういう両面があるわけです。ものに変身する、扮するという一番端的な手法としては、仮面というものが便利なわけです。仮面をつけると、一種の神がかり状態に近付いていくということがあるわけですね。
また演劇的なものとしては、たとえばギリシャ劇などでは神々を描く。ギリシャには野外劇場があって、王様から一般市民までがそこに集まって、ギリシャ神話の世界、ギリシャ神話の中の物語を、仮面をつけてコロスが中心になって――コロスというのはコーラスですね――、人数が決められていて仮面を換えながらされていたようです。そういうのが、演劇の芸術として形になったものとしては最初だったわけです。
そのほかにも、世界にはいろいろな発祥があります。
日本にも能というものが生まれる前には、神楽だとか田楽といったものがある。神楽も鬼の面をつけ、ヤマトタケルの神様が仮面をつけて出てくる。そういったものが今でも行われているわけです。昔の共同体では人々のいとなみの中で仮面というものは使われていた。こうしてみますと、仮面を使った演劇的表現の方が古く、今私達が演劇と呼んでいるもの、心理劇などは新しいものであり、演劇のルーツは仮面劇だと言えます。
しかし近代社会においては、舞台に神々や魔もの、動物や植物などが登場する、祝祭性の強い演劇はあまり重視されなくなり、人間中心の演劇が主流となり、仮面を使用するものは少なくなってきました。たとえば、ホームドラマ「渡る世間は鬼ばかり」を仮面をつけてやるわけにはゆきません。それはチェーホフ作品についてもしかりです。
しかし一方では、我が国で能、狂言や神楽が今でも上演されていますように、主にアジア各地、インドやインドネシア、中国、韓国などでも、仮面劇や仮面舞踊は、昔ほど盛んだとは言えませんが、上演されています。
では仮面を使うことでどんな面白さや利点があるのでしょうか。まず顔につけただけで、一瞬にして神や魔物、動物になれる。それは観客だけではなく、演じる人間もその気になれるのです。顔を隠す行為は、たとえばサングラスをかけたり化粧をすることで、私達は気分が変り、大胆になったりします。
そのように仮面は変身のためのより便利な小道具であり、日常的ではないもの、見たこともないような世界を表現することに非常に適している。ある人物なり、神や精霊との一体感を、演ずる側も、見る側も体験できるわけです。そして、そには見えないものを見ることができ、優れた仮面と優れた演者によって、神話や童話がリアリティーを持って観る人に迫ってくるのです。俳優の個人が消え、物語世界を出現させることが可能になるのです。
しかし近代劇において、仮面を使用することはほとんど無くなってしまいました。さっきも申し上げたようにチェーホフでは仮面が必要ではなくなったのです。近代劇は仮面を排除する方向に行ったわけです。それは人間中心のドラマが主流となり、俳優の表現する方向も大きく変ったのです。
しかし戦後になり、ヨーロッパを中心とした演劇の中で再び仮面を見直す動きが生まれてきました。そして俳優レッスンの中でも仮面が使われるようになりました。
では、なぜ仮面をつけての表現を見直すようになったのでしょうか。
それはやはり「近代」社会、近代における人間観や自然を見直そうとする意識の中から生まれてきたのだと思います。科学の発達、物質文明、一種の合理主義――そういうものの中で、人間が本来持っていた、たとえば呪術性であったり、神秘性であったり、それから身体性をもう一度取り戻す、からだに埋め込まれた潜在性とか連続性といったものが、演劇などでも問われるようになってきたわけです。
最近ある建築家のこんな言葉を読みました。バウハウス――これは一九一九年、建築家のグロビウスが中心となってドイツに生まれた芸術学校で、機械技術と芸術の総合を理想とし、その教授の中にはポール・クレーやカンディンスキーなどがいて、近代芸術の展開に大きな影響を与えたのですが――そのバウハウスの運動の中で欠けていたものは、自然と歴史であったと言っております。演劇において自然や歴史、物語性を取り戻す、そのために身体性を見直す、そんな気運が強くなり、我が国の能やインドの古典芸能、インドネシアの仮面劇、イタリアにあったコメディア・デラルテ(ギリシャ劇から生まれた仮面喜劇)などが見直されるようになったのです。
第三回~仮面を私はなぜ使い始めたか――身体性の回復――
に続く
では仮面とはなんなのでしょう。
仮面は人類が文明を持ったときからあったと言われ、非常に古くから使われてきました。
では、どのような理由で人は仮面を作り、付け、何を表現しようとしたのでしょうか。
古くは宗教的な儀式や祭りに使われたのが始めだと思いますが、たとえばアフリカなどでは裁判にも使われたようです。ひとつは共同体の中で「誰かが鶏を盗んだ」とすると、その罪を問わなければならない。こういうことが起きてきたときに、長老が仮面をつけて、村の人たちは輪になって踊りはじめる。するとあるところで長老が神がかりして――神様が自分にのりうつって――ばったりと倒れるわけです。すると仮面についている角の先が触れるわけですが、その触れた人が犯人だということになる。これはぜんぜん偶然ではなくて、長老は村のことをよく知っています。それではなぜそのようなことをしたのかというと、この裁判の結果は神が決めたものだ、神が見ていたものだという考え方をとっていたからだと思います。
それから日本にも古い行事の中で「なまはげ」というものがあります。東北の方はよくご存知かと思います。これはお正月ですか、近所のおじさんが仮面をつけて出てきて「勉強しろ!」「親の言うことを聞け!」と言うわけですね。すると子供はわんわん泣いて言うことを聞く。おじさんがそのまま出てきたのでは言うことを聞かないけれども、仮面をつけると子供はそれに恐怖をおぼえて言うことを聞く。つけている方もその気になる。そういう両面があるわけです。ものに変身する、扮するという一番端的な手法としては、仮面というものが便利なわけです。仮面をつけると、一種の神がかり状態に近付いていくということがあるわけですね。
また演劇的なものとしては、たとえばギリシャ劇などでは神々を描く。ギリシャには野外劇場があって、王様から一般市民までがそこに集まって、ギリシャ神話の世界、ギリシャ神話の中の物語を、仮面をつけてコロスが中心になって――コロスというのはコーラスですね――、人数が決められていて仮面を換えながらされていたようです。そういうのが、演劇の芸術として形になったものとしては最初だったわけです。
そのほかにも、世界にはいろいろな発祥があります。
日本にも能というものが生まれる前には、神楽だとか田楽といったものがある。神楽も鬼の面をつけ、ヤマトタケルの神様が仮面をつけて出てくる。そういったものが今でも行われているわけです。昔の共同体では人々のいとなみの中で仮面というものは使われていた。こうしてみますと、仮面を使った演劇的表現の方が古く、今私達が演劇と呼んでいるもの、心理劇などは新しいものであり、演劇のルーツは仮面劇だと言えます。
しかし近代社会においては、舞台に神々や魔もの、動物や植物などが登場する、祝祭性の強い演劇はあまり重視されなくなり、人間中心の演劇が主流となり、仮面を使用するものは少なくなってきました。たとえば、ホームドラマ「渡る世間は鬼ばかり」を仮面をつけてやるわけにはゆきません。それはチェーホフ作品についてもしかりです。
しかし一方では、我が国で能、狂言や神楽が今でも上演されていますように、主にアジア各地、インドやインドネシア、中国、韓国などでも、仮面劇や仮面舞踊は、昔ほど盛んだとは言えませんが、上演されています。
では仮面を使うことでどんな面白さや利点があるのでしょうか。まず顔につけただけで、一瞬にして神や魔物、動物になれる。それは観客だけではなく、演じる人間もその気になれるのです。顔を隠す行為は、たとえばサングラスをかけたり化粧をすることで、私達は気分が変り、大胆になったりします。
そのように仮面は変身のためのより便利な小道具であり、日常的ではないもの、見たこともないような世界を表現することに非常に適している。ある人物なり、神や精霊との一体感を、演ずる側も、見る側も体験できるわけです。そして、そには見えないものを見ることができ、優れた仮面と優れた演者によって、神話や童話がリアリティーを持って観る人に迫ってくるのです。俳優の個人が消え、物語世界を出現させることが可能になるのです。
しかし近代劇において、仮面を使用することはほとんど無くなってしまいました。さっきも申し上げたようにチェーホフでは仮面が必要ではなくなったのです。近代劇は仮面を排除する方向に行ったわけです。それは人間中心のドラマが主流となり、俳優の表現する方向も大きく変ったのです。
しかし戦後になり、ヨーロッパを中心とした演劇の中で再び仮面を見直す動きが生まれてきました。そして俳優レッスンの中でも仮面が使われるようになりました。
では、なぜ仮面をつけての表現を見直すようになったのでしょうか。
それはやはり「近代」社会、近代における人間観や自然を見直そうとする意識の中から生まれてきたのだと思います。科学の発達、物質文明、一種の合理主義――そういうものの中で、人間が本来持っていた、たとえば呪術性であったり、神秘性であったり、それから身体性をもう一度取り戻す、からだに埋め込まれた潜在性とか連続性といったものが、演劇などでも問われるようになってきたわけです。
最近ある建築家のこんな言葉を読みました。バウハウス――これは一九一九年、建築家のグロビウスが中心となってドイツに生まれた芸術学校で、機械技術と芸術の総合を理想とし、その教授の中にはポール・クレーやカンディンスキーなどがいて、近代芸術の展開に大きな影響を与えたのですが――そのバウハウスの運動の中で欠けていたものは、自然と歴史であったと言っております。演劇において自然や歴史、物語性を取り戻す、そのために身体性を見直す、そんな気運が強くなり、我が国の能やインドの古典芸能、インドネシアの仮面劇、イタリアにあったコメディア・デラルテ(ギリシャ劇から生まれた仮面喜劇)などが見直されるようになったのです。
第三回~仮面を私はなぜ使い始めたか――身体性の回復――
に続く
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再生作業としての演劇行為
2011年7月22日金曜日
再生作業としての演劇行為 その1
~仮面・人形・からだ~ 北方文化フォーラムより2005年4月15日
札幌大学の前学長、山口昌男先生にはいろいろとお世話になりました。私の作ってきた芝居に大変興味を持たれて、私達の船劇場公演にも足を運んでいただき、紹介記事や評を書いていただいたり、シンポジウムなどにも出席していただきました。
今回、私は初めてこの大学に来たのですが、とても美しく、設備も整っているのを見て、たいへんうらやましく思いました。それは、私が通っていた大学(芸大)が古く、汚かったせいかもしれません。学校へ住み着いている人なんかもいたりして、昼間から寝巻きでウロウロしているような学校でしたから、大学は汚いところだという先入観念があったからかもしれません。こんな場所で毎日勉強できる皆さんをうらやましく思います。ぜひしっかり勉強をして下さい。(笑)
さて、私がやっている舞台の仕事は、映像作品や本などと違って、ともかく劇場に足を運んでいただかないと、そのイメージやメッセージは伝わりません。でもそれだからこそ、舞台表現の持つ力や魅力はテレビや映画がこれだけ発展してもまだ十分に意味があり、重要だと考えています。ともかく舞台を観ていない方に、その面白さを伝えることの難しさはありますが、今日はなんとか皆さんに理解していただけるように努力してみます。
私がかかわり、作っている芝居は、おそらく普段皆さんが観ているものと違っているのではないでしょうか。それは仮面を使った芝居だからです。たとえば古典の能や狂言では仮面を使います、しかし現代劇で、仮面を使った舞台を上演しているところはほとんどありません。
第二回 *仮面とは に続く。
札幌大学の前学長、山口昌男先生にはいろいろとお世話になりました。私の作ってきた芝居に大変興味を持たれて、私達の船劇場公演にも足を運んでいただき、紹介記事や評を書いていただいたり、シンポジウムなどにも出席していただきました。
今回、私は初めてこの大学に来たのですが、とても美しく、設備も整っているのを見て、たいへんうらやましく思いました。それは、私が通っていた大学(芸大)が古く、汚かったせいかもしれません。学校へ住み着いている人なんかもいたりして、昼間から寝巻きでウロウロしているような学校でしたから、大学は汚いところだという先入観念があったからかもしれません。こんな場所で毎日勉強できる皆さんをうらやましく思います。ぜひしっかり勉強をして下さい。(笑)
さて、私がやっている舞台の仕事は、映像作品や本などと違って、ともかく劇場に足を運んでいただかないと、そのイメージやメッセージは伝わりません。でもそれだからこそ、舞台表現の持つ力や魅力はテレビや映画がこれだけ発展してもまだ十分に意味があり、重要だと考えています。ともかく舞台を観ていない方に、その面白さを伝えることの難しさはありますが、今日はなんとか皆さんに理解していただけるように努力してみます。
私がかかわり、作っている芝居は、おそらく普段皆さんが観ているものと違っているのではないでしょうか。それは仮面を使った芝居だからです。たとえば古典の能や狂言では仮面を使います、しかし現代劇で、仮面を使った舞台を上演しているところはほとんどありません。
第二回 *仮面とは に続く。
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再生作業としての演劇行為
2011年5月31日火曜日
場の持つ力 その4―場の力によって私が果たせたこと
私は四角なプンドボの各辺の中央から、広場に向かって、三米幅の花道を造ってもらった。それは芝居に登場する、人間やオートバイ、自転車、べチャ(人力で運転し客を乗せて走る三輪の乗り物)などの出入りにそこを使いたかったからである。
実は自動車や馬車まで登場させたかったのだが、床がもたないと許可にならなかった。
あたり前ですよね。
その花道のおかげで、プンドボの中央が場面によって街の四つ辻のようになった。
舞台装置は他に一切なしである。
私は注射のせいで熱は下がっていたが、まだ足が地につかず、ふらふらしながら、客席に座り、初日の舞台を見守った。
厚く重い熱帯の夜の闇から。
花道を通り現れては再び闇に去ってゆく、仮面の神々や王子、王女、この地で戦死したボロボロの兵隊服をまとった残留日本兵の亡霊達。それにまじって登場するオートバイの若者や、風船売り、べチャに乗った日本人観光客達は、今街からやって来て、再び街に帰ってゆくようだ。
中央から放射状にひらいた、木組の美しく高い天井には、石の床に反響した、セリフの声や、ガムランの音色が昇ってゆき、まじり合い、観客の体に心地よく降りそそぐ。
時たま吹いてくる涼風に乗り聞こえて来る、犬の遠吠えや、コーランを唱える声など、それは何とも効果的で、演出家としてはしめしめである。
いよいよ戦争の場面だ。
広場の何ヶ所にも置いたかがりびがいっせいに燃えあがり、所々に生いしげる木々や、広場を囲んで建つ民家のくずれた白壁までも赤く染め、煙がたちこめ、油と木の燃える匂いが鼻を突く。
いったいここはどこなのだろう。
嬉しい事に自分はもう演出家ではなく、ただの参加者の一人になっていた。
今ここでは時代や物語り、現実の境界が消え、光も音も、匂いや風、闇や死者さえそれぞれの存在をよりたしかなものとし、おたがいに生き生きと呼吸し合い、泣き笑い、叫び、唄い踊り、祈る。ここに有るすべてが哀しいほどのあたたかさに包まれ輝いている。
これは自分の熱のせいだろうか?もしそうだとしても、私が私自身にあたえた責任の一つを果たせた、そんな満足感で幸福であった。
場(トポス)の持つ力によって、これほどまでに作品世界が生まれ変わり、見えないのではとあきらめていた世界が見えてきたのだ。
横浜・東京の劇場公演の不満のナゾが解けた気がした。
私は自分達の船劇場の事を思った。
今から二十年前、私達は横浜の運河に浮ぶ古い木造のハシケを買い取り、そこで公演活動を続けてきた。船は我々に「場」の力をあたえ、創造力を強く刺激してくれる。だが五年前その船は老朽化の為沈んでしまった。
そうだぜひもう一度船劇場を浮ばせねば、私はその願いを強くしていた。
三日間の上演中、一度の雨に邪魔されることなく、「耳の王子」の公演は無事終わった。
私はインドネシア側の面々に、「実はあの雨止めの祈祷を僕は信じていませんでした。ごめんなさい。」と謝った。
するとベン・スハルト氏が「何も謝ることはありませんよ。我々だって信じていたわけじゃありませんからね」といたずら坊主のような顔をして笑った。そしてみんなも私も笑った。
一年後、そのベン氏が癌の為、五十三才で急逝された。
私はジョクジャカルタに行き、あの雨を止めたユドヨノ先生の案内でベンさんのお墓参りをした。途中で雨が降り出してきた。ぬれた墓の上に彼が上演ごとに毎回舞台裏で、神話の中の登場人物カルノとアルジュノの影絵人形にむかってしていたと同じように、赤と白の花びらを撒き、聖水と線香をささげご冥福を祈った。私達はもう二度とベンさんが祈りをこめて華麗に踊るあの姿をこの目で見る事はできないのだ。
ユドヨノ先生が一緒でもその日の雨はふりやまなかった。(終)
(注)この文章は十勝毎日新聞に掲載された記事です
実は自動車や馬車まで登場させたかったのだが、床がもたないと許可にならなかった。
あたり前ですよね。
その花道のおかげで、プンドボの中央が場面によって街の四つ辻のようになった。
舞台装置は他に一切なしである。
私は注射のせいで熱は下がっていたが、まだ足が地につかず、ふらふらしながら、客席に座り、初日の舞台を見守った。
厚く重い熱帯の夜の闇から。
花道を通り現れては再び闇に去ってゆく、仮面の神々や王子、王女、この地で戦死したボロボロの兵隊服をまとった残留日本兵の亡霊達。それにまじって登場するオートバイの若者や、風船売り、べチャに乗った日本人観光客達は、今街からやって来て、再び街に帰ってゆくようだ。
中央から放射状にひらいた、木組の美しく高い天井には、石の床に反響した、セリフの声や、ガムランの音色が昇ってゆき、まじり合い、観客の体に心地よく降りそそぐ。
時たま吹いてくる涼風に乗り聞こえて来る、犬の遠吠えや、コーランを唱える声など、それは何とも効果的で、演出家としてはしめしめである。
いよいよ戦争の場面だ。
広場の何ヶ所にも置いたかがりびがいっせいに燃えあがり、所々に生いしげる木々や、広場を囲んで建つ民家のくずれた白壁までも赤く染め、煙がたちこめ、油と木の燃える匂いが鼻を突く。
いったいここはどこなのだろう。
嬉しい事に自分はもう演出家ではなく、ただの参加者の一人になっていた。
今ここでは時代や物語り、現実の境界が消え、光も音も、匂いや風、闇や死者さえそれぞれの存在をよりたしかなものとし、おたがいに生き生きと呼吸し合い、泣き笑い、叫び、唄い踊り、祈る。ここに有るすべてが哀しいほどのあたたかさに包まれ輝いている。
これは自分の熱のせいだろうか?もしそうだとしても、私が私自身にあたえた責任の一つを果たせた、そんな満足感で幸福であった。
場(トポス)の持つ力によって、これほどまでに作品世界が生まれ変わり、見えないのではとあきらめていた世界が見えてきたのだ。
横浜・東京の劇場公演の不満のナゾが解けた気がした。
私は自分達の船劇場の事を思った。
今から二十年前、私達は横浜の運河に浮ぶ古い木造のハシケを買い取り、そこで公演活動を続けてきた。船は我々に「場」の力をあたえ、創造力を強く刺激してくれる。だが五年前その船は老朽化の為沈んでしまった。
そうだぜひもう一度船劇場を浮ばせねば、私はその願いを強くしていた。
三日間の上演中、一度の雨に邪魔されることなく、「耳の王子」の公演は無事終わった。
私はインドネシア側の面々に、「実はあの雨止めの祈祷を僕は信じていませんでした。ごめんなさい。」と謝った。
するとベン・スハルト氏が「何も謝ることはありませんよ。我々だって信じていたわけじゃありませんからね」といたずら坊主のような顔をして笑った。そしてみんなも私も笑った。
一年後、そのベン氏が癌の為、五十三才で急逝された。
私はジョクジャカルタに行き、あの雨を止めたユドヨノ先生の案内でベンさんのお墓参りをした。途中で雨が降り出してきた。ぬれた墓の上に彼が上演ごとに毎回舞台裏で、神話の中の登場人物カルノとアルジュノの影絵人形にむかってしていたと同じように、赤と白の花びらを撒き、聖水と線香をささげご冥福を祈った。私達はもう二度とベンさんが祈りをこめて華麗に踊るあの姿をこの目で見る事はできないのだ。
ユドヨノ先生が一緒でもその日の雨はふりやまなかった。(終)
(注)この文章は十勝毎日新聞に掲載された記事です
ラベル:
場の持つ力
2011年5月30日月曜日
場の持つ力 その3―そこは祭の場となった
ジャワ島に渡り二週間、時間におかまいなく連日襲ってくる豪雨と暑さ、四方吹き抜けのプンドボで昼夜おこなわれる稽古で、私もとうとう発熱、注射を打ちながら初日を迎えることになってしまった。
もし上演開始直前や、本番中に強い雨が来たら吹き込む雨水や雨もり、雨音で公演中止は間違いない。たった三回だけの公演だ、中止はつらい。
インドネシア側の連中に「雨になったらどうしますか?」と聞いても、「本番中、雨は降りません、雨は止めますから。」とニヤニヤしながらわけのわからない事を言っている。
このプロジェクトの準備に私たちは二年間をかけて来た。言葉の壁だけではない、考え方や方法論、システムの違い、稽古時間も通常の倍以上かかる。テーマだってお互いにこだわりの持てるものを選びたい。宗教や食べ物の違い、(最近起きた味の素事件でもわかるように。)貨幣価値の大きすぎる違いも、気を付けないと差別につながりかねないだろう。
初日、幸い雨はまだやって来ない。
客の出足も好調だ。
プンドボの廻りには、まだ明るいうちから入場券を持たない近所の大人や子供達が集まって来て鈴なりになり、何が始まるかと柵越しにのぞき込みぺちゃぺちゃと喋っている。広場には屋台のそば屋までお出ましで、ここはあっという間に祭の場になっていた。
会場の裏手では、インドネシア側の一番年長のユドヨノ先生がまっ赤な唐辛子で飾りつけた供物を地面に立て、素焼きの入れ物に椰子の殻で作った炭火をおこし、なんと雨止めの祈祷を始めたではないか。
自分が出演中も火を絶やさぬよう、美人の奥さんまで動員している。
開始十五分前。
日本公演の間も、楽屋の一角で毎回行われていたのだが、ここではスタッフ、出演者全員が会場の一番奥にある別棟の、かつて王や王女の控え室だった扉の前に集合し、影絵芝居(ワヤン・クリ)マハーバーラタの物語りに登場する悲運の王子カルノと戦場で兄を殺さねばならなくなったその弟アルジュノ、二つの金色鮮やかな人形をならべ、線香、聖水、花を捧げ、今日の公演の無事を祈る。
その後インドネシア側のチーフであり出演者で共同企画者のベン・スハルト氏、彼は芸大のパフォーマンス科の学部長であり、著名な舞踊家だ。彼の神への感謝を込めた真摯で華麗な即興ダンスがしばらくあり、皆でお互いに一礼し、各自スタンバイの位置につく。いよいよ開始である。
開演のドラが鳴り、すべての明りが消えると、まだかすかに光が残る夕空に、プンドボの屋根がそのやさしい形を浮かび上がらせた。
再び明りが入る。
客席は満員になっていた。
(注)この文章は十勝毎日新聞に掲載された記事を載せています。
もし上演開始直前や、本番中に強い雨が来たら吹き込む雨水や雨もり、雨音で公演中止は間違いない。たった三回だけの公演だ、中止はつらい。
インドネシア側の連中に「雨になったらどうしますか?」と聞いても、「本番中、雨は降りません、雨は止めますから。」とニヤニヤしながらわけのわからない事を言っている。
このプロジェクトの準備に私たちは二年間をかけて来た。言葉の壁だけではない、考え方や方法論、システムの違い、稽古時間も通常の倍以上かかる。テーマだってお互いにこだわりの持てるものを選びたい。宗教や食べ物の違い、(最近起きた味の素事件でもわかるように。)貨幣価値の大きすぎる違いも、気を付けないと差別につながりかねないだろう。
初日、幸い雨はまだやって来ない。
客の出足も好調だ。
プンドボの廻りには、まだ明るいうちから入場券を持たない近所の大人や子供達が集まって来て鈴なりになり、何が始まるかと柵越しにのぞき込みぺちゃぺちゃと喋っている。広場には屋台のそば屋までお出ましで、ここはあっという間に祭の場になっていた。
会場の裏手では、インドネシア側の一番年長のユドヨノ先生がまっ赤な唐辛子で飾りつけた供物を地面に立て、素焼きの入れ物に椰子の殻で作った炭火をおこし、なんと雨止めの祈祷を始めたではないか。
自分が出演中も火を絶やさぬよう、美人の奥さんまで動員している。
開始十五分前。
日本公演の間も、楽屋の一角で毎回行われていたのだが、ここではスタッフ、出演者全員が会場の一番奥にある別棟の、かつて王や王女の控え室だった扉の前に集合し、影絵芝居(ワヤン・クリ)マハーバーラタの物語りに登場する悲運の王子カルノと戦場で兄を殺さねばならなくなったその弟アルジュノ、二つの金色鮮やかな人形をならべ、線香、聖水、花を捧げ、今日の公演の無事を祈る。
その後インドネシア側のチーフであり出演者で共同企画者のベン・スハルト氏、彼は芸大のパフォーマンス科の学部長であり、著名な舞踊家だ。彼の神への感謝を込めた真摯で華麗な即興ダンスがしばらくあり、皆でお互いに一礼し、各自スタンバイの位置につく。いよいよ開始である。
開演のドラが鳴り、すべての明りが消えると、まだかすかに光が残る夕空に、プンドボの屋根がそのやさしい形を浮かび上がらせた。
再び明りが入る。
客席は満員になっていた。
(注)この文章は十勝毎日新聞に掲載された記事を載せています。
ラベル:
場の持つ力
2011年5月29日日曜日
場の持つ力 その2―ジャワの劇場プンドボ
二十年来の友人でバリ島を代表する舞踊家の彼が、私にこんな事を言った。
彼はアメリカやヨーロッパ、我が国でも多くの公演を体験している。「外国の劇場で踊るのはあまり好きじゃない、そこには月も星もなく、風も吹かないからだ。」
彼等の踊りや音楽(ガムラン)は本来、寺院の広場やワンテランと呼ばれる、屋根だけの吹き抜けの建物の中で上演される。そのワンテランは私にとっても忘れ難い場所だ。それは四年ほど前、同じインドネシアのジャワ島の真ん中にある古都ジョクジャカルタの「プンドボ」(バリのワンテランと同じスタイルの建物のジャワ名)で、「場」の持つ力を強く感じる貴重な体験を持った事があるからだ。バリのワンテランとジャワのプンドボは多少の違いはあるが、基本の構造は同じである。
その公演は我が国の国際交流基金の主催事業の一つとして行われた。私達の劇団、横浜ボートシアターの出演者九名と、インドネシア国立芸術大学の舞踊、演劇、音楽の先生方十名との合同公演で、インドネシア公演では芸大の学生達も多数参加した。
上演作品は私の脚本、演出で題名は「耳の王子」、内容はマハーバーラタがジャワに伝わり、ン外年月の中でジャワ独自の世界観を持った神話として定着。そのジャワ版マハーバーラタに登場し、弟アルジュノと戦い命を失う悲運の王子カルノと、敗戦をインドネシアで迎え、その混乱の中で祖国を捨て、インドネシア独立軍に参加、オランダ、イギリス軍と戦い死んでいった残留日本兵の悲劇を重ね合わせ、私達にとって国家や民族、家族とは何か、そのはざまで無念の死を迎えた多くの死者達への鎮魂を願う、そんな作品内容であった。
神話の中の登場人物や、戦死した日本兵には仮面を使用、舞踊あり、生演奏ありの二時間の芝居である。
「耳の王子」はまず東京、横浜で上演し、その三ヵ月後芸大の所在地である人口二百九十万の街ジョクジャカルタで最終公演を迎えることになっていた。
私は日本での上演に強い不満が残っていたが、その原因が何であるか答えを出せないままインドネシアに向かった。
ジャワは雨季の真只中で、刻々と変化する空模様はいつ豪雨を降らせ、上演を中止させてしまうか、そんな不安の中で稽古が進み、日本から行ったメンバーは慣れない気候に、次々に体調を崩していった。
街の中心部にある王宮広場を横切り、背の低い民家が並ぶ狭い路地を抜け、屋根のある門をくぐると、小学校の運動場ほどある広場の中央に、稽古場であり上演場所でもあるそのプンドボは建っていた。ここは百年ほど前、王宮用の建物として造られ、結婚式や舞踊や音楽の演奏会場として使用されていたが、今は公民館として芸大の学生達の稽古や町の人達のガムランの稽古や演奏会場に使用されているようだ。
そのプンドボは奥行き三十メートル、幅二十メートルの大きさで、屋根を支える大小の木の柱と石の床だけの建物で、ロビーも無ければ舞台照明設備や音響設備、楽屋もなかった。
(注)この文章は以前、十勝毎日新聞に掲載された文章です。
彼はアメリカやヨーロッパ、我が国でも多くの公演を体験している。「外国の劇場で踊るのはあまり好きじゃない、そこには月も星もなく、風も吹かないからだ。」
彼等の踊りや音楽(ガムラン)は本来、寺院の広場やワンテランと呼ばれる、屋根だけの吹き抜けの建物の中で上演される。そのワンテランは私にとっても忘れ難い場所だ。それは四年ほど前、同じインドネシアのジャワ島の真ん中にある古都ジョクジャカルタの「プンドボ」(バリのワンテランと同じスタイルの建物のジャワ名)で、「場」の持つ力を強く感じる貴重な体験を持った事があるからだ。バリのワンテランとジャワのプンドボは多少の違いはあるが、基本の構造は同じである。
その公演は我が国の国際交流基金の主催事業の一つとして行われた。私達の劇団、横浜ボートシアターの出演者九名と、インドネシア国立芸術大学の舞踊、演劇、音楽の先生方十名との合同公演で、インドネシア公演では芸大の学生達も多数参加した。
上演作品は私の脚本、演出で題名は「耳の王子」、内容はマハーバーラタがジャワに伝わり、ン外年月の中でジャワ独自の世界観を持った神話として定着。そのジャワ版マハーバーラタに登場し、弟アルジュノと戦い命を失う悲運の王子カルノと、敗戦をインドネシアで迎え、その混乱の中で祖国を捨て、インドネシア独立軍に参加、オランダ、イギリス軍と戦い死んでいった残留日本兵の悲劇を重ね合わせ、私達にとって国家や民族、家族とは何か、そのはざまで無念の死を迎えた多くの死者達への鎮魂を願う、そんな作品内容であった。
神話の中の登場人物や、戦死した日本兵には仮面を使用、舞踊あり、生演奏ありの二時間の芝居である。
「耳の王子」はまず東京、横浜で上演し、その三ヵ月後芸大の所在地である人口二百九十万の街ジョクジャカルタで最終公演を迎えることになっていた。
私は日本での上演に強い不満が残っていたが、その原因が何であるか答えを出せないままインドネシアに向かった。
ジャワは雨季の真只中で、刻々と変化する空模様はいつ豪雨を降らせ、上演を中止させてしまうか、そんな不安の中で稽古が進み、日本から行ったメンバーは慣れない気候に、次々に体調を崩していった。
街の中心部にある王宮広場を横切り、背の低い民家が並ぶ狭い路地を抜け、屋根のある門をくぐると、小学校の運動場ほどある広場の中央に、稽古場であり上演場所でもあるそのプンドボは建っていた。ここは百年ほど前、王宮用の建物として造られ、結婚式や舞踊や音楽の演奏会場として使用されていたが、今は公民館として芸大の学生達の稽古や町の人達のガムランの稽古や演奏会場に使用されているようだ。
そのプンドボは奥行き三十メートル、幅二十メートルの大きさで、屋根を支える大小の木の柱と石の床だけの建物で、ロビーも無ければ舞台照明設備や音響設備、楽屋もなかった。
(注)この文章は以前、十勝毎日新聞に掲載された文章です。
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