2011年11月27日日曜日

音と言葉の身体 その1

劇作家・演出家 遠藤啄郎
聞き手       山本 掌
雑誌『月球儀』記載記事より 

第一回 日本語を発する

――最初にこれまで演出された舞台の経験から「音・声」と「言葉」について感じられたことをお話いただけますか。

遠藤啄郎(以下遠藤)
言葉って意味だけのものじゃありませんよね。音、声、表現の中でどのように日本語の音を発するか、呼吸をいかに使うかが基本なわけです。
海外公演では日本語でやり、字幕スーパーを出します。イヤホンで聞きながら見るというのがありますが、私はどうも好きじゃない。変に芝居がかってやられると、邪魔になります。しかし字幕スーパーも文字が多すぎると見切れないし、芝居の方もよく観ることができなくなる。ですからダイジェストします。セリフを全部訳すのではなく、ポイントだけを訳したり、時には少々邪道ですが、場面のポイントを解説して出したりします。そしてセリフの音や、言いまわしをよく聞いてもらえるよう心がけるんです。
  時たま、日本で上演するときより海外での公演が良くなる時がありますよ。

――それはどうして。

遠藤
日本語のわからないお客さんの前で日本語で演ずるわけですから、なんとか伝えたいと思う意志が強くはたらくからだと思います。それが俳優の気持ちに現れ、身ぶりも含めて、丁寧になり「いいな」と思うときがあるのです。
自国で上演するにも、それくらいやればと思うのですが、なかなかそうはゆかないようです。
最近の芝居を見ると、あまり日本語のことを重要に考えなくなっていて、見せることや笑わせることばかり表面に出て、言葉のダイナミズムを感じる舞台が少なくなっていますね。

――それは感情をこめたり、役作りどうするかとなってしまって、日本語をどう発するかという観点がないからでしょうか。

遠藤
身ぶりにしても、言葉にしても、それは脚本の文体によって違ってきます。かつては歌舞伎や浪花節、義太夫節、講談などの名調子を一般の人々が暗記し、口づさんだりしたものでしょう。今はほとんど聞かなくなりました。ヨーロッパなどでもたとえばシェイクスピアーのセリフ、名調子を、会話やスピーチの中で使ったりするわけです。
現代劇ではその名調子を失ってしまいましたね。
演説でもそうです。最近の例で言うとオバマさんの演説と麻生さんの演説を聞き比べても、その差はあきらかですよ。
テレビや映画の吹き替えはどうも好きではありません。なにか一番大切なものが失われるような気がします。特に外国の名優の吹き替えは残念に思います。
声優が日本語に置きかえることによって、演技の一番大切なものが失われてしまう気がします。

――あ、その「置きかえ」という言葉ですが、知らない言語であっても、言葉がわからなくても「伝える力」がある、ということでしょうか。

遠藤
ですから海外の芝居でも、良い芝居の場合は、一つ一つの意味がわからなくても、内容が伝わってくる。面白いものは笑えたりする。外国に行って観た芝居でも何度かそうした体験ばあります。
舞台での言葉というのは、最後は音やリズムにたどりつくと、僕は考えて芝居を作っています。それが言葉を身体化してゆくことです。

――言葉の身体化ですか。

第二回 古典を朗唱する に続く

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