2011年11月28日月曜日

音と言葉の身体 その2

古典を朗唱する

――遠藤さんは中世説話「小栗」から中世の言葉をそのまま活かして「小栗判官照手姫」を創られました。初めて観たときはカルチャーショックでした。芝居としてもですが、言葉の強さに圧倒されたのかな……中世の言葉、それを発語する俳優にとってはどうなんでしょうか。

遠藤
ええ、中世の物語 説教節「小栗」を舞台化して上演しました。
古典の劇、歌舞伎、能、狂言、文楽などでは中世の言葉や江戸時代の言葉をそのまま使っていまも上演されています。
しかし現代の俳優がやるときに歌舞伎や狂言の言い回し、調子をまねしたからといって、うまくゆくわけではありません。
私達が中世の語り物の文体を使ってやるときには、当然ですがまず台本の解釈から入り、それを現代の感覚、認識の中で再構成してゆく作業が必要なわけです。そして新しい語り口を作ってゆく。たいへんな作業ですがね。
現代の芝居の場合、ほとんど日常会話が主で、感情表現、心理表現が主ですから、たとえば説教節のような叙事詩的な文体は、なかなか現代の俳優さんは苦手なのです。ですから海外のもの、ギリシャ劇やシェイクスピアーを上演する時、狂言や歌舞伎の俳優さんのほうがうまくいったりする。
しかしなんとか中世の持っていた日本語のダイナミズムを取りもどせないかと考えます。
これはロシアの演劇大学に留学した人に聞いたのですが、留学生も自国の古典を朗唱する訓練がボイストレーニングのなかに入っているそうです。ですから日本人でしたら原文でたとえば「梁塵秘抄」とか「平家」を読むんだそうです。様式化されたものをまねして語るのではなく、自分で理解して語る。
日本の演劇学校では、やっていませんね。
言葉の身体性、歴史性を自覚してゆくには、どこの国や民族でも大切だと思うのですが。

――中世は今から六百年以上ですか。遠藤さんはそれを意図して、選んで戯曲にしていますね。それを実際にせりふとして音声化、身体化をする俳優さんにとってはどうなんでしょうか。

遠藤
まず戸惑じゃないでしょうか。だからたとえば「平家物語」を読んでみなさいといっても、古典劇をやってきた人ならば言葉の意味だけでなく、言葉の調子・リズムがすぐにとれますけれど、実はその調子が問題なんであって、それは何々調、たとえば歌舞伎調、狂言調になる。そうじゃなくて現代の自分達の身体を通して読みなおしてゆく作業の中で、リアリティが生まれ、役者個人個人のなかにも生まれる。そして新たな説得力が出てくる。そしてそれは現代文を使う場合にも、日本語のダイナミズムをとりもどすことが可能になるのではないでしょうか。

呼吸の詰め放し に続く

劇作家・演出家 遠藤啄郎
聞き手       山本 掌
雑誌『月球儀』記載記事より

0 件のコメント:

コメントを投稿