2011年11月30日水曜日

音と言葉の身体 その4

第四回 古典劇、現代劇

遠藤
現代劇の俳優さんも、古典劇を学ぶべきです。どんなシステムで、どんな指導かはありますけど。そして様々な文体と四つに組むレッスンをしないとだめですね。

――そのテキストになるのはどういうものでしょうか。やはり中世の語り物、あるいは能になるのでしょうか。

遠藤
そうですが、様式の語り口が出来上がっているものは避けたほうがいいと思います。
テキストそのものから立ち上げてゆくほうが私はいいという考えです。
たとえば狂言にしろ能にしろ、それをきわめるには何十年もかかってしまいます。現代劇を作ってゆくなかで現代日本語をどう生き生きしたものにするか。その視点に立って古典をあつかうべきでしょう。言葉それは今つくられたものではありません。僕はよく俳優にいうんです。言葉は君よりエラいのだとね。

――困難な事を遠藤さんはやっていますよね。その演劇活動、海外により伝わっているようですが。そろそろ<遠藤メソッド>が出来る(笑)。何が違うんでしょう。

遠藤
日本の演劇界、特に現代劇がもっている価値観の問題ではないでしょうか。別に私は古典をやっているわけじゃありません。要するにわが国の近代演劇や現代劇が観念や心理主義に振り回され、自分達の歴史性、身体性を失ってしまったからでしょう。

――これまでの近代劇・現代劇の観念や心理あるいは文学に比重がかかっていた演劇から模索されて、<遠藤メソッド>の演劇に踏み出していますよね。古典の訓練をしていない俳優さんたちと芝居を作っている。私も何回も拝見した「小栗判官照手姫」、さきほども言いましたが、ほんとうに強烈な印象でした。六百年以上も前の説話が今の私たちにこんなにもいきいきと面白い。

遠藤
そうですね。ですから、私は日本語に身体性を取り戻す作業をやってきたつもりなのです。身振りにしてもアジア的な創作仮面をつくり、レッスンしたり、仮面劇を上演したりしてきました。それがけっこう大変で、新劇やアングラ演劇系の連中からさよならされてしまった感があります。

――ほんとうに開拓民ですね(笑)。古典の人達からの反応はどんなでしょうか。

遠藤
古典をしっかりなさってきた方は受け入れていただけます。たとえば文楽の太夫さん、言葉と本当に葛藤してきた方が「小栗」の舞台を見て、新鮮な面白さを感じていただけました。
ところが中途半端に古典かぶれした人たちは古典と比較して、見るのか批評的で評判が良くありません。

――そうなんですか。遠藤「小栗」は日本の言葉の文芸の大きな流れのなかに位置していると思います。これはある種ルネッサンスですよね。

第五回 インドネシアの舞踊や演劇 に続く

劇作家・演出家 遠藤啄郎
聞き手       山本 掌
雑誌『月球儀』記載記事より 

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